アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ その1(1920年1月5日~1995年6月12日、 イタリア)
ピアニストの演奏会に熱心に出掛ける人達に取って一度や二度くらいは(三度はないかもしれませんが)一生忘れられない演奏会を体験した経験があるのではないでしょうか。私の一生忘れられない演奏会の一つはミケランジェリの演奏会でした。
それは、名演だとか、感動したとか一言で言える演奏会ではなく一つの衝撃、人生観、精神の有り様さえ変える演奏会でした。恐らくその日聴いたベートーヴェンの最後のピアノソナタ、ハ短調を私は永遠に忘れる事が出来ないでしょう。
私はそれ以降このベートーヴェンの最後のソナタの演奏会が、他のピアニストであっても、どこかで開かれる度にまるで殉教者の様に彷徨い歩く日々を過ごす事になってしまったのです。今に至るまで、精神的な深みへ導いてくれる演奏に出会う事はありますが、ミケランジェリの演奏を、敢えて言いますが、越える演奏に出合えないままです。
ミケランジェリの演奏はまるで「美」と言うものが、これしかないものであり、その「美」は極彩色に彩られていなくても「美」そのものなのだと私に教えている様でした。誠に美しい、私にとっては筆舌に尽くしがたく美しい演奏でした。
ピアノと言う楽器があの様に響く様を聴くに及んで、私はピアノ演奏における「美」に付いて語る事を止めてしまったのです。ミケランジェリの美しい演奏を聞いた後で何か言えるほどの演奏を私は以来聞く事がありません。
一体あの変奏部のアリエッタのトリルを如何に演奏すればあのミケランジェリのピアノリサイタルで聴いた「美」に近づける事が出来るのか、それを解明する(誠に不遜な言い方ですが)事こそピアニストの秘密に近づく事なのではないかと私は彷徨い歩きながら思うのでした。
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op. 111(http://ml.naxos.jp/work/587823)ミケランジェリ(Pf)
その2に続く
*注記*
ミケランジェリのベートーヴェン:ピアノソナタ第32番ハ短調作品111はレコード(CD)があり今でも聞く事は容易です。そこでも「美」に付いて考えさせられる演奏を聴く事が出来ますが、実際の演奏と比べればミケランジェリの演奏の1/10も伝えてはいないと感じます。
実際に聞いた事が無いピアニストを語るのは難しいと言うのは、こうしたところにもあります。ただ、実演に接した事が無いピアニストの演奏を語ってはならないなどとは思っておりません。こうした論議はいつの時代も喧々諤々の議論を呼びますが、レコード(CD)あるいは放送録音などに残された演奏も一人のピアニストの「実績」ですから、尊重すべきものです。
それでも尚、敢えて言いますと、あの日のべートーヴェンの美しさは、あの場所にいて聞いた聴衆にしか分からなかっただろうと思います。それはさらに、敢えて言いますが、ピアノ演奏における奇跡でした(この様な言い方に胡散臭さを感じるなら、筆者の表現力がなっていないだけだとお許しを請うだけですが)。もはやFM放送の為の録音さえもされず、空間に消えて行ったコンサートホールの密室で行われた演奏に付いて語っても著しく不公平、不当な事だと誹られても仕方が無いと思います。聞いた人間にしかアリバイ造りが出来ないのはルール違反だと! それでも私はピアノ演奏の「美」に付いて語るなら、あの日聴いた演奏は間違いなくピアノ演奏における「美」の指針であったと思います。
誤解なきようにして欲しいのですが、ミケランジェリの演奏が最高のベートーヴェンのソナタの演奏だと私は言っていません。素晴らしい「美」でしたが、素晴らしいベートーヴェンのハ短調ソナタであったのか、私は未だに判断しかねています。ただ、私にとってはあの演奏を越える演奏に出会った事は未だに無いのは事実です。偉大な何人ものピアニスト達の演奏を聴いても尚、未だに無いのです。私はあの日ミケランジェリの演奏会に出掛けたのは「運命」だったのだと今でも思っています。何しろ予定していた他の演奏会は全てキャンセルされ、当日の曲目も半分だけに削られようとしたほどでした。