レオンスカヤ その4
例え多くの出来事がピアニストの責任であっても、コンサートホールと言う一つの共同空間の中でなされた「真実」には聴衆の側の責任もあるのだという事を忘れてはならないですし、その様な意識を持っていなくては、今、なされている演奏がどれほどの価値を持っているのかを理解することが出来ないと思うのです。 なるほど、ひどい演奏を聴かされたりすれば閉口するのは慈愛に満ちた神ならぬ身であれば致し方が無いですし、私自身もそれほど達観してなどいません。 ですが、演奏に接する時の聴き手の哲学が求められるのも確かではないでしょうか。
レオンスカヤの演奏には、なぜかその様にピアノ演奏を聴く側の根源的なテーゼを喚起させる様なものがあるのです。 先ほども触れましたように、あなたは音楽を愛しているのかと言う問いかけを感じるのです。 大げさな言い方でしょうか? たぶんに偉大なピアニスト達全てがどこかしらに、同じ問いかけをしているのだと思いますが、レオンスカヤの演奏に問いを感じるのは、ピアニスト自身が自らにも問いかけを繰り返し、繰り返ししているからだと気が付くのです。
レオンスカヤの演奏は焦点が絞り切られていないと感じるかもしれませんがそのようなことは決してありません。 焦点を絞るとは聞かせどころのツボを押さえる事でもありますが、聞かせどころのツボはしばしばピアニストにとっては過大にデフォルメして提示されやすい、いえ、提示しやすい個所でもあるわけです。 デフォルメと言うほどの個所ではなく、ほとんど慣例になっている個所ですが、ショパンのワルツ第7番嬰ハ短調作品62-2の同様のフレーズが繰り返される個所(写真4 楽譜参照)では大概のピアニストが最初のテンポより2度目に繰り返される個所のテンポを早めて弾いて演奏効果を出しています。効果などと言うと何か作為がありそうで音楽的な表現をないがしろにしているような印象を持つ方もいらっしゃるでしょうが、演奏において効果を出すと言うのは大切なものです。 そればかりを狙っての演奏は空虚で音楽を損ねてしまいますが、メリハリ、あるいはテンポルバートなどを「効果的」に使って演奏することはショパンの演奏解釈の要ですから、聞きどころとして、このどことなく寂を感じさせる部分の繰り返しを早めることは何の問題もありません。 誰とは申しませんが、一度目よりはるかに早く弾くピアニストもいます。
それにも関わらずレオンスカヤはほとんど1度目と2度目に差がありません。 同じ様にこの個所を繰り返しているのです。 この演奏は、逸る(はやる)心を喚起する、急かせるような方向とは違った演奏です。 そう、心にゆとりをもたらします。 メロディーが心に沁みるのです。 その代わり湧き立つ様な高揚感は控えられるのです。 後から「ああ、あの時はそうだったのだ。」としみじみと思い返される効果をもたらすのです。 聴いた瞬間だけが全てではないと音楽を知っている聴き手は味わうことが出来るのです。 ショパンの演奏はもっとテンポルバートをかけて情感に訴える様にする方が聴き手を引き付けてやまないかもしれません。 ロマン派の音楽とは恒常的にその様にあるのだと思っても良いのかもしれません。 ショパンはロマン派かと根本的な問い掛けをここで穿り出そうとは思いませんが、レオンスカヤはその方向に行こうとはしないピアニストなのです。 レオンスカヤの求めるものは慈愛や情感だと気が付けば、 あるいは安らぎ、癒しと気が付けば、そのまま腑に落ちるピアニズムであるという訳です。 つまり、先ほどの弁でいえば、聞き手は己の内にあるショパンを知っていればこそ、しばらくの「間」を置いてレオンスカヤの演奏が腑に落ちて味わえるという事になります。
(つづく)