-
ヴィルヘルム・ケンプ (その4)
と、言いながらもやはりケンプの演奏はリストによって最良の面が見えるとは言い難いのではないでしょうか。贔屓目な見方になるかもしれませんが、リストの演奏はケンプのピアニストとしての有り方に相応しくない楽曲なのだと言えると思います。超絶技巧を持って弾き飛ばし聴衆を力技で納得させる演奏はケンプにはおよそ似つかわしくないのです。
そんな事の為に長大な努力と危険を冒さなくても、ケンプが鍵盤に手を下ろすだけで、音符の一音一音に命が吹き込まれていくのを聴いて、それでも尚、ケンプのヴルトゥオーゾの妙技を聴きたいと私は思いません。
ヴィルヘルム・ケンプはピアノ演奏の秘密(なぜあのように弾けるのか、あのように弾かないのはなぜか)の一番傍に「密やかに」佇んでいるピアニストなのです。
ケンプは演奏を自然のもとへ返しそのもとで表し、知的財産へと昇華しました。ここでは息使いが、親密さが、要するにピアノ演奏における「親和性」が最良の節度姿を持って提示され、ここでは技巧のもたらすものはただ、ピアノ音楽への奉仕にしか過ぎないのです。
凡庸なピアニストが曲への奉仕者であると評価されれば、それは大変な誉め言葉になるでしょう。突き詰めれば偉大な第一級のピアニスト達も全て曲への奉仕者ですが、第一級のピアニスト達を捕まえて敢えて曲への奉仕者であると言う言い方はほとんど聞かないと思います。彼等達が奉仕者であるのは明白ですが、その上に最高の表現者でもあるからあえて奉仕者とは言わないだけです。ケンプももちろんそうですが、ケンプほどに曲の通常の誰もがその曲に対して抱く印象とは離れた当たり前ではない姿を示してくれるピアニストはいないのではないでしょうか。演奏する曲に対して、だから敢えて奉仕者ヴィルヘルム・ケンプと言う言い方をしても許して貰えると思います。
ケンプは絶対的な鍵盤の支配者になろうとは思わなかったし、その為に何かをする様なピアニストではなかったのです。ケンプはただ、舞台に訥々(とつとつ)歩み出て聴衆に一礼しピアノに向かって「親密」であるように奏でる事が「出来た」のです。そこには最大の技巧の見せ場に至ってもけして失われる事のない抑制と誠実さがあったのです。
ヴィルヘルム・ケンプこそは、嵐の様に轟音を立てて超絶技巧の力技が闊歩した19世紀のリストやアルカンやアントン・ルビンシュテイン、ドレイショック、タウジッヒ、他ならぬフォン・ビューロー等の20世紀になっても尚、香っていた残り香を降り払ったピアニストであり、21世紀の今日にある、ピアノ演奏の節度を具現化したピアニストです。
ケンプは密やかに、彼が信じ崇拝した作曲達の元へ出掛けて行ったのです。舞台で彼は最良の謙虚さを持って偉大な作品を弾いたのです。
舞台上でピアノを弾くケンプに出会わなければ分からない程に 密やかに。
ヴィルヘルム・ケンプ (完)