グレン・グールド(1932年9月25日〜1982年10月4日、カナダ トロント)

初めにお詫びとおことわりをしておきたいと思います。20世紀の偉大なピアニストを語る上でその舞台に直に接する機会を頂いたピアニスト達を語る事を主旨として始める事にしていました。しかし、最初のピアニストでいきなり主旨から外れたピアニストを取り上げます事をお許しください。若くしてあっと言う間に舞台から引退してしまったピアニストの実際の演奏を聞く機会が無いのは致し方がないと言い訳をしておきます。しかも、彼は自分の演奏芸術は録音スタジオの中にあり、レコードによって聞かれる演奏が自分の演奏だからと言っています。
ならば彼と彼の演奏については実演を聞いたことが無くても録音によって話をさせて頂いても差し支えない、いえ、彼はそれをむしろ望んでいたと考え彼についての一章を始める事にしました。
さらに、もうひとつお断りしておきたいと思います。彼を語るとき、医学的な見地に立ち入った事柄に触れる事にならざるを得なくて苦慮いたしました。もとより筆者は医学については全くの素人であり、下手にその領域に触れる事は良くない、さらには危険な事であるかもしれないと思い悩んだのですが、触れる事なくして彼を語るのは限界があると判断して医学的な領域に立ち入らせて頂きました。彼と恐らくは同質の疾患を抱えたピアニストが筆者の近しいところにいるから語れると言い訳をさせて頂きこの章を始めさせて頂きます。
前置きが長くなりました事をお詫び申し上げます。彼とはグレン・グールドの事です。

  • グレン・グールド (その1)

遥か以前に、レオポルド・ゴドフスキー(1870年~1938年ロシア)と言うピアニストがおりました。本来であれば、文献でしか知り得ないゴドフスキーがどんな演奏をしたか、私達は知る事が出来ます。言うまでもなくレコードがあるからです。昔の録音ですが適切な再生を施せば、ゴドフスキーの演奏芸術を味わうに不足のない音質で再生が可能です。録音芸術はベンヤミンの言葉の様に実際の生演奏と比べたら「アウラ(aura)」が無いかも知れませんが、少なくとも何かしらかの演奏の一端を評価する事は出来る様に思います。そしてグールド自信は一端ではなく全てだと考えているように見えます。
偉大な指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンはあれほどの指揮者でありながら何故常に録音・録画にこだわったのでしょうか。カラヤンは電子技術の勝利によりもたらされる保存性により自らが死しても自身の演奏芸術は残る、すなわち永遠の命が与えられると考えた様に推測されます。録音スタジオに籠るグールドも同様に考えたのでしょうか? バッハの見事な演奏を聞きながら、それでもグールドは永遠の命や神の御力などに囚われるピアニストではないと感じます。彼は残す為に録音したわけではないのです。如何なる意見がグールドから発信されていても、グールドは実は録音による保存性よりも演奏家としての有利さを追い求めて録音を考えた様な気がします。グールドは実演の代替えとしてレコードを考えましたし、そう言う発言をしています。何故レコードを実演の代替えになどと思ったのでしょうか。そんな事を考える同業者は当時も、さらに今に至るまでいないはずです。

その2に続く

グレン・グールド