-
グレン・グールド (その7)
グールドのあまりにも楽譜の指示とかけ離れた演奏を聴いて驚きますが、作曲家の残した楽譜を尊重出来ないのならば(尊重しなくてはならないとまで言わなくても)、自由裁量に任されたジャズを弾けば良いと言う言い方も出来る訳です。同じ世代の同業者、ヴィーンのピアニスト、フリードリッヒ・グルダはそうしています。彼は「真面目に」ベートーヴェンのピアノソナタを弾きますが、ジャズのピアニストでもある訳です。
グールドがジャズの世界に行かないのは思想心情の問題では無いと思われます。つまり、自由裁量に任された楽曲の展開は、即興演奏と言う事ですが、グールドの精神に圧力を加えてしまうのではないかと、精神の牢獄!強迫神経症が恐らくそこまでグールドをある意味支配していると考えれば、納得出来る様な気がします。
確かに曲の解釈は理由付けがなされていて、奇抜であっても説明されています。誤りが有るか無いか、正しいか否かは別の話にしても、一見、主義主張が有るかに見える理由も、部分的には実験的な思いつきを履行するだけの為だと見えたりします。
天才の気まぐれ、と解釈しそうになりますが、十分な理由があるのです。アンチテーゼ!迫りくる強迫への抵抗!抵抗し続けることへの絶望感。
いえ、全てを強迫神経症の故だと言っている訳ではありませんし、そんな単純な考え方が通用するほど人間は文字通り単純ではありません。それは十分に分かっているつもりです。
ただ、グールドが抱えた病を考慮に入れなくてはやはりこのピアニストの事を理解するのは難しいと思うのです。だからと言って病だけを持ってグールドの全てを推測して行くのが正しいとは思いません。
そう考えて行くと、病だからとグールドの演奏と芸術性を論じてもかなり無理がある様にも感じます。又、病を盾にグールドを批判している様にも受け取れると思います。
しかし、あまりにも、特別な芸術論があるかのような解釈を拝読するたびに何か本質から離れたところでグレン・グールドの演奏芸術を評価している様に見えて違和感を感じたのも事実です。
グレン・グールドの演奏芸術とは、実際にレコード(あるいはCD)で今日においても聴く事の出来る音楽(グールドが実演の代わりにしうる物と表明した)であって、音楽論や音楽哲学ではないのです。それらは補助的に演奏芸術を理解出来る道標になりうるかもしれません。
だけれど演奏に耳を傾ける事を忘れたように論評が飛び交うのは誤りだと思います。
さて、ここまでが、素人が敢えて踏み込んだ、ピアニスト、グレン・グールドの医学的見地からの秘密と言う訳です。肝心の演奏については改めて話を進めたいと思います。
その8に続く