グルダ その5

初期の作品2の第1番ヘ短調のソナタもグルダの開放が感じ取れます。 ご存知の様にこのソナタは若きベートーヴェンが世に知らしめんがために作曲した若書きですが野心に満ちたソナタです。 同じへ短調であるからかもしれませんがやはり中期の傑作「熱情」ソナタへの道を思い起こします。
そもそも、ベートーヴェンのピアノソナタは生涯を通じて常にベートーヴェンの作曲技法の先端に位置付けられる楽曲です。 ベートーヴェンの若かりしころから晩年に至るまでの変節がソナタによって理解できます。 若く未熟な、それゆえに語るべきものがあまりないソナタと初期のソナタは受け取られがちですが、ベートーヴェン以前の過去の作曲家のソナタに比べれば一段進んだソナタと印象を受けます。 グルダが与える生命観、躍動感、絶え間なく響く希求の声。 ベートーヴェンの初期のソナタは実は若さゆえの、欠点と言うのではなく隙間があり、中期、後期の凝縮されたソナタに比べればピアニストの自由裁量がかなり利くのです。 グルダは彼の持つテンペラメントを解き放ってそこに差し出していくのです。 自由の幅は大きく振幅しますが、だからと言って道を踏み外すような弾奏は聴こえてきません。 自由裁量のもたらす運動感が適量に振幅するのです。 不思議なことにもっと野放図にグルダは弾き飛ばすことも出来たでしょうに、この演奏ではグルダは節度を持って事にあたってるのです。
それは第7番のソナタに至っても事情はあまり変わっていません。 グルダは「才気に満ちた軽口」と確かアルフレート・ブレンデルが評した第4楽章に至ってもけして「軽口」扱いはしていないのです。 グルダがベートーヴェンの初期のソナタに投影しているものは、己自身の姿ではないでしょうか。とりわけ第7番の第4楽章に、グルダはのしかかるウィーンの伝統を皮肉を込めて跳ね返そうとしているようにも思えます。 それなのに自由裁量が大きく許されるがゆえに、かえって野放図に振る舞えないのだと、才気に満ちた軽口を叩けないのだと、言うわけです。 自由をあれほど渇望し即興の嵐の中に身をゆだねさえ出来るのにグルダは踏みとどまってしまうのです。ベートーヴェンのソナタに対する誠実さのゆえにです。
その代わりグルダはピアノ演奏以外のところで反抗するのです。ベートーヴェンのソナタの率直な演奏のはてにグルダは誰も(この場合は権威あるものに向けてですが)ベートーヴェンを本当に分かっている輩などいないのだとウィーン大学が授与したベートーヴェン生誕200年記念のメダルを突き返してみせて騒ぎを起こし伝統の中で意義を唱えるのです!

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第1番 ヘ短調 Op. 2, No. 1:http://ml.naxos.jp/work/4757856:フリードリッヒ・グルダ(Pf)

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第7番 ニ長調 Op. 10, No. 3:http://ml.naxos.jp/work/4757933:フリードリッヒ・グルダ(Pf)

グルダ その6に続く

フリードリッヒ・グルダ(Pf)