ミケランジェリは孤高のピアニストです。その演奏も、理念も、本人自身も何処の流派にも属さない唯一の存在の様に感じます。普通はどんなピアニストも系統を持っています。ショパンの弟子の誰それ、その弟子の彼女、そのまた弟子のあの人、さらにその弟子の私の先生、だから私はショパンの系統に属すると大概のピアニストは考える訳です。それが演奏活動に大きく影響するピアニストもいれば、単に売りだし文句だけのピアニストもいる訳ですがいずれにしろどこかの流派に属しているのが一般的です。
私達は極普通の生活にも自身が何処に属しているのかを感じたり考えたりします。ミケランジェリの何処にその様なものを感じるでしょうか。あのまるで研ぎ澄まされた冷たく鋭利な刃物の様な演奏と舞台の上での印象にはおよそ系統などと呼べるものは存在していない様に思えます。敢えて言えばコンクールで優勝した時に審査員アルフレッド・コルトーが言った「リストの再来」との評価からミケランジェリをリストの系統に数える事が出来るかもしれません。
しかし、考えて見ればミケランジェリは最初からあの様に究極的な「美」、過つ事の無い「完璧」な演奏をするピアニストだったとはどうしても思えません。リストの再来と言う評価ならば恐らくもっと自由奔放で何かあれやこれやに捕われる事のない演奏をしたのだろうと推測されます。
何時から「美」と「完璧」の求道者として振る舞う様になったのでしょうか?求道者として振る舞えるだけでも大変な才能でありまさしく天才の成せる業ではありますが、それにしてもその道を選んだのはどうしてなのか、捕われる事のない解き放たれた演奏をしたならばそれはどんな演奏になったのでしょうか。そう考えるとミケランジェリに対する興味は尽きません。
しかし、残念ながら私達にはその機会は与えられませんでした。
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ 終わり
*晩年の最後の頃の演奏はそうだったと小耳にはさんだ事がありますが、非常に残念な事に私はそれに接する事が出来ませんでした。一生忘れる事の出来ないベートーヴェンの最後のソナタの演奏と、解き放たれた演奏に接する事の出来なかった悔いが、私の中のミケランジェリの芸術と音楽を分裂させてしまったまま今に至るのです。
私は今でも忘れる事が出来ません。舞台に立つミケランジェリのおよそ他のピアニスト達と違う立ち振る舞いと指の間から流れ出た音楽とをです。いずこでも聴く事の出来なかったあの「音」をです。それは計らずも言ってしまった様に、「音楽」では無く「音」だったのかもしれません。
何かそれはピアニストの一番奥深いところにある、解き明かしてはいけない、いえ、触れてはいけない秘密の様に思えるのです。もしかしたらミケランジェリはピアニストの秘密そのものでしょうか。永遠に解く事の出来ない秘密かもしれません。
ミケランジェリは己のやりたい様にせずに、禁欲と抑制、「美」と「完璧」に支配されながらも、最高のピアニストの一人に数えられる事を勝ち得る事の出来た、唯一のピアニストなのです。
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ (完)