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ヴィルヘルム・ケンプ (その3)
ところで、「息使い」などと書くとケンプのシューマンやシューベルトは弱々しい演奏かと思われてしまいがちですが、ケンプは力強く確固たる意志を持って弾奏しています。シューマン、シューベルトのフォルテを、ふさわしく響かせているのが聞こえてきます。それが、まったく押しつけがましくないのです。楽器としてのピアノの威力まざまざと見せつける様な響きでは無く、そのフォルテが必要だから、あるべきところにある様に咆哮すると言った風情を描くのです。その表現の有り様を聴けば、ケンプが如何に第1級のピアニストであるかが理解出来るのです。
この様にケンプの演奏が持つ戸惑いやあてどなさ、息使いや自然な感覚について語っても、やはりピアニストがショパンやリストを取り上げないのは遺憾に思えるに違いありません。はっきり言えば、どの様に弁護の論陣を張ろうともケンプに取ってショパンはともかくリストは手に余る楽曲であると率直に言う事が公平な事の様に思われます。
ピアノを学ぶ時に、楽曲の難易度順に指導されるのは順当な指導方法ですが、中級クラス(どの基準を持って難易度を決めるのか多様な意見はありますが)にもリストの楽曲は出て来ません。リストの楽曲は難易度の高いものしかないと言っても過言ではありません。ケンプは名のある大ピアニストです。最難易度に当たる楽曲を弾けないと言う事では無いのですが、舞台に立ちご婦人方を卒倒させる必要はなくても、口うるさい聴き手達を納得させる演奏をこなさなくてはならないとなると、いささか齟齬が生じるのです。ケンプは技巧のピアニストでは無いのです。それを残念と取るか、無視するか、それ故に「あれだけ」の演奏が出来るのだと捉えるのかは人それぞれだと思います。
つまりケンプのリスト演奏はまるで旅人の様な、詩人の様な、こう言って良ければおごそかなものなのです。剛腕を持ってする様な演奏では無い、すなわち、リストを他のピアニスト達の様に「普通に」弾き切るのとは違う演奏になるのです。ワクワクするような技巧の冴えを聞こうとすれば裏切られる様に感じ、聴衆がリスト演奏に期待するものとの間に齟齬が生じると言う訳です。
それでいながらシューベルトが、「致し方なく」作曲した「さすらい人幻想曲」をケンプは取り上げているのです。シューベルトが技巧の冴えを演奏者に露骨に要求したこの曲をケンプが取り上げるのは、その陰にリストが編曲したリスト版の「さすらい人幻想曲」の存在があるからかもしれません。
いずれにしろ、ケンプが「さすらい人幻想曲」を取り上げるのは演奏技巧の技術的な部分の否定的な見解に対する反論の主旨が潜んでいる様にも見受けられます。「さすらい人幻想曲」をもって技巧にかんする雑音にけりをつけようとしたのかもしれません。
シューベルト 「さすらい人幻想曲」ハ長調 Op. 15, D. 760(http://ml.naxos.jp/work/6253415)ケンプ(Pf)
その4に続く