エミール・ギレリス その1(1916年10月19日〜1985年10月14日、ロシア帝国オデッサ)

ピアニストに限りませんが一人の演奏家を一言で言い表す、あるいは射当てる便利な言葉があれば私達はその言葉に飛びつきます。 それは理解しやすく大変便利な言葉だからです。 そしてあれこれ考える努力をしなくても良いので楽なのです。 楽で便利な言葉に私達は魅力すら感じ、思考停止に陥るのです。 いったい、たった一言で複雑なこの場合はピアニストをですが、表す便利な言葉などあるわけがないにも関わらず私達は一言で表現する誘惑に駆られるのです。
「鋼鉄のピアニスト」「鋼鉄のピアニズム」一見もっともらしいこうした言葉は理解の助けになる様でいて実は何も表してはいないのです。
エミール・ギレリスの不幸はここにあります。 この一言があまりにも印象深く作用するために他の一切の要素がすべて吹き飛んでしまいかねないのです。 森ばかりが見えて、森を構成する木々の一本一本がまったく見えなくなるのです。 コマーシャリズムにかこつければこんな便利な宣伝文句もなかなかありません。 キャッチフレーズ、キャッチコピーとしてはまあ優秀だと言えなくもないのですが優秀であればあるほど、他の一切合切が御和算にされてしまう危険が増えるだけのものなのです。
ギレリスのシューマンの交響的練習曲とブラームスの変奏曲のピアノの夕べの演奏に立ち会って思ったのは、シューマンの柔らかく自在な曲想を断固とした確信で持って弾奏していても、それが決して硬直化していない柔軟性を内包して進んでいく見事さがあると気が付いたことでした。 それはブラームスでも同じでした。この演奏を聴いて「鋼鉄の」の言葉は何の意味も持たないと確信したのです。
思えばギレリス本人もこの「鋼鉄の」のキャッチコピーにずいぶんと振り回されたのではないかと推測するのです。 演奏家にとってはこうした固定化したイメージをもたらす言葉は実は迷惑以外の何物でもないのではないでしょうか。
理知的なピアニスト、アルフレート・ブレンデルはだからショパンなど弾かないのです。 「ショパン弾き」と言う手枷足枷は御免こうむるのです。 「ショパン弾き」と言われればそれはピアニストにとっては大変名誉なことである反面、ショパンを弾かないピアノの夕べを行おうとしても、マネージャーも音楽事務所も、何より聴衆が許してくれないのです。
こうした偏見さえ醸成しかねない言葉、キャッチフレーズが思考停止に私たちを導く、いえいえ、落とし穴に私たちを落とすことが便利な言葉の裏側にはあるのだと用心しなくてはならないと思うのです。

シューマン:交響的練習曲 作品13:http://ml.naxos.jp/work/5634082:エミール・ギレリス(Pf)

(つづく)