アリシア・デ・ラローチャ その1(1923年5月23日〜2009年9月25日、スペイン)
ピアノの演奏について私たちはロマンティックな思いを持っていたりするものです。 閑静な住宅街をそぞろ歩いているとどこからともなくピアノの音が聞こえてくる。 それがショパンの聞いたことがある曲だったりすると演奏している人をなんとなく想像してみたりします。 そうした時、歩いている側は男女の差なく弾いているのは少女や女学生であるように想像するらしいのです。 白魚の様な指でショパンを奏でているようなそんな想いを懐くのです。
ピアノが19世紀に欧州で流行った良家の子女のたしなみであった時から、今日、日本においてもなんとなくそんなイメージが懐かれるような20世紀のピアノの風景があったと郷愁に誘われながら思うことがあります。
私たちはピアノを弾くという行為が、まるで格闘技のごときものであるなどとあまり思っていません。 ところがピアノを操るという事は実は格闘技の様なものなのです。 身体能力の練達、熟達を得るために、それこそ「鍛え上げ」なくてはならないのです。 閑静な住宅街で聞こえてくる優雅なピアノの調べからは想像がなかなかし難い「訓練」がピアニストになる道には必要なのです。 もちろんスポーツジムに通って筋肉を鍛えるのとは若干主旨が異なりますが、鍛えるという事においては同じようなことだと言えます。
ところで私たちは実に安易に努力すれば希望は叶うと思いがちですしそう信じている面があるのも事実です。 ところが鍛え上げさえすれば誰もが100メートルを10秒で走れるわけではない事実を私たちは皆知っているのです。 持って生まれた才能が私たちを支配しているのです。 「天才は99%の努力と1%の才能だ!」と言う言葉は凡百の普通の人たちに対する慰めの言葉でしかありません。
長い前置きになってしまいましたが、アリシア・デ・ラローチャの事を考えるたびに上の長い前置きが心に湧き上がってくるのです。
ラローチャは「ピアノの女王」と形容されることがあります。 こんな形容はアルゲリッチにせよラローチャ本人やテレサ・カレーニョ(ベネズエラのピアニストでピアノの女帝と云われた、1853~1917年)だって御免こうむりたいと思うはずです。 真摯な彼女たちは自分たちの存在をそんなピアノの上に君臨する何者かであるようになど形容して欲しくなどないと思っていることでしょう。 何か形容をつけないとすまない硬直化した音楽業界やマスコミが騒ぎ立てる為にかっこうの言葉が欲しいだけで意味もない形容を流布させるのはけして良いこととは思えません。
しかし、仮に「ピアノの女王」という形容が意味のない形容であったにしても、「女王」と呼びたくなるような強い何かがラローチャから感じ取れるのまで否定しなくても良いと思います。
(つづく)