ラローチャ その7

ラローチャがピアニストとして活躍するに至る姿には特異な部分があります。 それはラローチャがコンクールに出場して華々しい成果を上げて世に出たという訳ではない事にあります。 数々の偶然がかさなり、世に出る機会に恵まれた運の良さもあるでしょうが、幼いころから確実に心に残る演奏を積み重ねてきたからに違いありません。 言葉が悪いですが、神童はある意味では見世物に近い存在になりがちです。 モーツァルトは鍵盤を布で覆いその上から弾いて見せたとか、とかくそういう事だけが強調され、モーツァルトはそれで終わることは無かったのですが、他の多くの神童たちが成人するころには消えてしまっていることが多いのは事実です。

ラローチャははっきりと「コンクールなどと言う形式が、そもそも間違っている」と言っています。 コンクールに対する意見は人それぞれですし、世に出るための必要悪だと考える人達もいます。 ラローチャの意見が正しいか間違っているかは別にして、それがラローチャの姿勢なのです。根底にあるのはコンクールの為の勉強が演奏をより機械的にしてしまうという恐ろしさにあります。 そうです、恐ろしいのです。 機械的な演奏が如何に音楽を損ねるのかは今更大きな声で言うほどの事ではないと思います。 ラローチャにとっての演奏とはもっと人間的なものであり自然体のものであるという事なのです。

ラローチャは自然体で生きて、ピアノにも自然体で親しみ、いつの間にかピアニストとしての名声を勝ち得ていたようなところがあります。 本人も子供の時からピアニストになりたいなどとは思っていなかったと言っています。

そして較べられたくて音楽を奏でているのではなく、愛しているから奏でているのですと話しています。

アリシア・デ・ラローチャはそう言うピアニストなのです。

今でも端正で何物にも侵されない、真摯な、しかし、その中にはたくさんの情熱と数えきれない思いとがホールの隅々まで浸透する演奏を時々想い出すのです。聞いているとき豊かな思いに満たされ、温かい心持に浸り、うきうきした気持ちになり、要するにアリシア・デ・ラローチャは聴衆と作曲家とその音楽と自分自身をさえ信頼し心を寄せることの出来た偉大なピアニストだったのです。 忘れられない想い出です。

(完)

アリシア・デ・ラローチャ(Pf)