ポリーニ その4
その思いはほとんど無視されている様に感じます。 当時、誰も本気でポリーニのベートーヴェンの後期ソナタの演奏を他ならぬアルトゥール・シュナーベルやバックハウスの演奏と比較し、それらに比肩しうる演奏となりえるのかを考えることなど思いさえしなかったのでした。 もちろん、後期のソナタが若い演奏家の手に負える作品ではないとする慣例的な考えも手伝って、あまり興味を持たれなかったのも事実でしょう。 比肩するかどうかの判断は人それぞれでしょうが、若いポリーニの演奏が最初から低く見積もられていたのは確かです。 ショパンなら大目に見てくれますが、ベートーヴェンには厳しく、ほとんど「権威」筋のなすがままであったろうことは想像出来ます。
明確な、歯切れ良くさえ聞こえる早目のテンポで弾かれる後期のソナタの第30番や31番の演奏は一見若々しさの発露とさえ思えるのですが、後期のソナタだからと言って重厚な精神性を表現出来ていなければならないなどとは言えない訳です。 格別に重々しくテンポを設定する必要性、必然性などないし、重厚な精神性が例え演奏に必要だとしても、また聴衆の側がそうあるべきで、そう聞きたいと思っていてもそれはあくまでも「内包」されれば良いことでありましょう。 だから、フォルテで爆発するパッセージでは生き生きと躍動させる事をいとわないのです。 ただ若さに任せて咆哮しているのではないのです。 充分な研究と吟味の上に、深淵な最後のソナタ群と言う呪縛を解いて演奏しているのです。
以前他のピアニストの章で書きましたようにベートーヴェンは何も32番は最後のソナタだからと思ってなどいなかった、33番に向けての通過点だったと述べた事がありましたが、ここでも同じように述べられますし、一歩踏み込んでいえばポリーニの演奏が決して後期のソナタと言う「気負い」を持っていないことに気が付かなければならないと思います。弾奏の様は後期のソナタに近しいしっかりしたものですが。
(つづく)
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集:(https://ml.naxos.jp/album/00028947941217):マウリツィオ・ポリーニ(Pf)