ホロヴィッツ その3
ラフマニノフの演奏で述べたように、ホロヴィッツの弾くピアノには艶やかな響きが確かにあるのです。 どの様な艶やかさかと言いますと、鋼鉄線で出来た弦の機械的で鮮明な高解像度の響きではなく古(いにしえ)のプレイエルピアノの柔軟さと倍音のたおやかな重なりが連想される響きをもたらすのです。 灼熱の疾走を見せるスクリャービンの中にもそれは感じられるのです。
ホロヴィッツのもたらすスクリャービンの演奏は卓越した一つの気品であり規範でもあると思うのです。 他のピアニストなら、さらに若い時分のホロヴィッツなら、おそらく違った様にスクリャービンを演奏するのでしょうが、晩年にホロヴィッツが弾いたスクリャービンの練習曲作品8の第12曲嬰ニ短調はスクリャービンの演奏の啓示だと思うのです。 激しいタッチやリズムを刻むことからどこかしら一歩引いた演奏は練習曲にありがちは機械的な印象からずっと離れた情緒を表現してやまないのです。 その情緒とはロマンティックな時代の香りであり、まだ、人知の及ばない天上に近いところでは、19世紀の良き趣味の香りが残っているのだと教えている様に感じるのです。
ホロヴィッツの響きがそこへ導いてくれるのです。 そのような響きはピアノ自体の響きなのか、ホロヴィッツの演奏テクニックなのか、調律のなせる業なのか、解明する必要はないでしょう。 なぜなら、ホロヴィッツの様なピアニストにはロマンティックな「秘密」が残されている方が良いと思うのです(スクリャービンのピアノソナタの演奏については別の機会にしたいと思います)。
さてロマンティックな「秘密」は横に置いて、いつもながらのベートーヴェンのピアノソナタの演奏に言及する事に致します。
ホロヴィッツのベートーヴェンのピアノソナタの演奏は、常に何か大切なものを置き去りにして走駆しているのです。
さて、ここまで述べて話はいきなりショパンの演奏に飛びます。 ショパンの楽曲は、基本的に手のポジションなど非常に良く考え抜かれた「大変弾きやすい」楽曲です。 また、誤解を招く様な言い方をします。 ショパンの曲が「大変弾きやすい」? あの過酷なまでに難しい練習曲集を前にして何を言っているのだと、これも又お叱りの嵐でしょうか。
しかし、手を鍵盤に置いたときに自然に形が出来る様なポジションはピアノに精通した天才でなければ造り得ない曲です。 意識しなくてもポジジョンが取れる! ショパンのすごさはこうしたところにもうかがえるのです。 だけれどもショパンが親切なのはここまでなのです。 大変弾きやすいのはポジションを与えてくれるところまでで「後はどうぞお好きなように」とその先は弾き手のピアニストを突き放してしまうのです。 まるで羅針盤の無い航海に放り出すように。 確固たる己を持っていないピアニストは迷い難破するのは必至です。 有名な曲が多く、ショパンを弾かなければピアニストと言えないほど一般的(幻想即興曲を考えてみてください、一部であろうと全部であろうとたぶん聞いたことのない人はいないと思います)になっている名曲の数々は、道標が、行くべき方向が示されていないのです。 ピアニストはそれを発見しなくてはならないのです。 これはたいそう難儀な事です。
(つづく)