ホロヴィッツ その6

ですが、ホロヴィッツをベートーヴェンのソナタの演奏で見ることはあまり賛同してもらえないと思います。 そこでシューマンのクライスレリアーナ作品16を取り上げてみることにしましょう。

その前に又、多少回り道をしてからクライスレリアーナの話しに入りますのでお許しを頂きます。 ピアニスト、ウラディーミル・ホロヴィッツの事を本当に書いて良いのか? 今更、彼について何を書くことが出来るだろうか? 神経過敏症の有無を言わさない技巧を持ったピアニストの既に語りつくされた物語とは違う何かを表すことが出来るだろうか? と言う思いから離れることが出来なかったと正直に言っておきます。 20世紀のピアニスト達を語るならホロヴィッツについても語らなくては片手落ちと言う事になるでしょう。 だけれど、やはり知らん振りを決め込んでホロヴィッツについては語らないのが最も「利口」であると思うのです。
シニカルな態度を取る聴き手達は「その通り、利口に振舞った方が良い」と言う事でしょう。 とはいうもののホロヴィッツのピアノ演奏の秘密に近づけるならシニカルな態度に従順であるよりは、馬鹿になる方がより面白いと思うので、馬鹿な文章を続けていくことにします。
クラウディオ・アラウの一文でも申しましたが、偉大なピアニスト達の「秘密」は左手の低音にあると言う事です。 ホロヴィッツの音も、見事な低音に秘密があるのです。 優れた再生装置を持ってすれば、ホロヴィッツの低音を再生することは難しい事ではないかもしれません。 スピーカーから響く低音にホロヴィッツの秘密を聞くことが出来るなら幸せなひと時を過ごすことが出来るでしょう。
*筆者が左手バスの響きにピアニストの秘密を感じたのは同じ1903年生まれのアラウとホロヴィッツだと言う事は単なる偶然でしょうか。 それとも何か共通したものがあるのでしょうか。

「ヒビの入った骨董」、ホロヴィッツが始めて来日し、ある意味ではボロボロの演奏を執り行った際に吉田秀和氏が発言した厳しい評価は電波に乗りあっという間に日本中を駆け巡りました。あの演奏は残念な演奏だと言う意見が大方を占めました。 筆者も同意しますが、あの日ホールに響き渡った左手バスの響きは紛れもなくウラディーミル・ホロヴィッツその人の響きだと深く納得し、発見し、秘密を教えて貰ったのは間違いないのです。 楽曲の分析や、アーティキュレーション、テンポルバート、フレージング、ピアニッシモフォルテッシモの扱い等々の演奏内容もさりながら、ピアニストの中には音の響きにこそ秘密を宿していると感じるピアニストがいます。 ホロヴィッツの特に低音の爆発は底の底を揺さぶる低周波振動でもあるかのように聴き手を揺さぶり、音の響きにまぎれもなく秘密が隠されているのだと信じられるものでした。
そのくせ、ホロヴィッツの弾き方はあんな指使いで、なぜあのような低音が出せるのだろうかと訝しく思うほど、水平に伸ばされているのです。 映像や文献や写真で見知ってはいても、実際に目の当たりにするとやはり驚きと羨望が(ホロヴィッツをうらやむなんて愚かしい事この上ないのですが)沸き起こります。 その水平の指が低音の響きだけではなく高音の艶を出しながら駆け抜けていくのですから、まるで魔法を見せられているようでもありました。
(つづく)

ホロヴィッツ来日公演のプログラムの表紙

ホロヴィッツ来日公演のプログラムの見開表紙

上の写真のプログラムには「ヒビの入った骨董」と言った吉田秀和氏自身が「特別寄稿ホロヴィッツの来日によせて」を書いています。 その文章の最後を「どんな演奏になるか。 よかれあしかれ、この人をきくことは、余人と比較するのを許さない、ひとつの事件を意味するだろう。」と結んでいます。 この文を読むとヒビの入ったと辛辣な評価をした吉田秀和氏自身が実は最もがっかりしたのかもしれないと改めて思います。 あれほど欧州や欧米で演奏会を聞いてきた吉田秀和氏もホロヴィッツを聞いたのは当日の来日公演が初めてだったそうです。