パウル・バドゥラ・スコダ その1(1927年10月6日〜、オーストリア)

歌うとはどの様な事なのだろう。 人は声を出して歌う。 人が発する声による音楽が歌だとするなら、ピアノで歌うとはどういう事だろう? 歌うとは本来、人が声を出して音楽を奏でる事を指すのなら、ピアノは歌うのではなく楽音が鳴る、楽器であるピアノが歌うなどはない事になる。 だけれどしばしばピアノが歌うと表現される。 指示がカンタービレとしてあったりする。こ れはどういう事なのだろう。 ピアノは歌う事が出来ると言う事だろうか?
そうした疑問をふと感じた時にはスコダの演奏を聴くと良いかもしれない。 スコダの演奏が他の全てのピアニストより歌っているからではない。 スコダの演奏は決然としたところと歌うところが端正な対比を持っていて、過度で行き過ぎたところが無い演奏だから、「歌う」と言う事の意味がよりはっきりと正しく理解できるのだ。 甘くトロトロした歌にあふれたピアノ演奏など、よほど心が疲弊している時でもなければとても聞けたものではない様に、過度の演奏はいつでも戒めなくてはならない。

しばしば「ウィーンのピアニスト」の形容がされるスコダは確かにそうした趣味を持ったピアニストだ。 スコダが行うシューベルトの演奏はウィーンのウィーンによるウィーンの為の演奏であると言うべきだろう、とはけしてならない。 スコダの演奏にはやはり普遍的な人類の共通財産としてのシューベルトが宿っているのだ。 逆説的な言い方だが、よりウィーンらしいところがあるからこそ普遍的な力が宿るのだ。 ウィーンらしさとは何かだが、それはフリードリッヒ・グルダが嫌悪し、イエルク・デムスが不承不承受け入れ、バドゥラ・スコダが体現した、ゲミュートリッヒカイトなのだ。
これではウィーンらしさを説明したことにはならないが、その街の持つ雰囲気や性格、気質は言葉で説明するのが難しい。 ましてや一人のピアニストが演奏で表す○○らしさを説明するのは難儀である。 それらはおいおい機会を見つけて触れていきたいと思う。
それにしても、シューベルトのピアノソナタだ。 スコダの演奏でとりわけシューベルトのソナタの演奏を聴いていると歌うとはそういう事かもしれないと思うところが見いだせる。
過度に、これみよがしに歌わない「スコダの歌う」とはどのような事かが分かるような気がする。 あくまでも気がする程度の話しとして了解してもらいたい。

ピアノ技術も本一冊ではとても書ききれない多様な要素で成り立っている。 高名なピアニストの教則本などが(チェルニーのそれは200年近く経ってもいまだに神通力を持っている)大いに使われ、技術解析の解説本は古典から現代版まで出版はひきもきらない。現代はネットを開けば技術に関する情報が溢れている。 玉石混交だから注意が必要だがその話は別の機会にする。 ところで正しい技術指導の文章でもでもなかなか、触れていない事項がある。 それはあまりにも当たり前で必要ないと言えばそうだと言える内容なので触れていなくても技術指導に欠陥があるようなそんな重大な事ではない。

(つづく)

パウル・バドゥラ・スコダ(Pf)、音楽学者、デムスやグルダとともに「ウィーン三羽烏」の一人