リヒテル その4
アラウの章でも申しましたが、「テンペスト」は何かと演奏に問題が出やすいソナタです。テンポの件はアラウの章で♪=72のお話をしましたが、第1楽章の冒頭の分散和音からしてつかみどころを模索しなくてはならない難曲です。
22歳の高齢(ピアニストになるなら)になって初めて師を仰ぎ、モスクワ音楽院に入学し(それも又、とんでもなく異例な事ですが。)教えを貰ったゲンリッヒ・ネイガウスは「高みから俯瞰して作品全体を把握出来る稀有な演奏家。」と弟子のリヒテルを評価したそうですが、リヒテルの「テンペスト」を聞くとその言葉が思い浮かびます。
リヒテルの「テンペスト」は全体を俯瞰しているのです。細部の描写はもちろん素晴らしいのですが、テンペストと言う全体のまとまりが、まるでリヒテルその人の様に響くのです。アラウの章でも申しましたが、「テンペスト」は対話で成り立つ楽曲です。リヒテルの「テンペスト」にアラウと違うところがあるとすれば、対話に親和性を醸成しないところでしょうか。何しろ先に言いました様にリヒテルが最初にピアノの演奏の練習に弾いた曲の一つがこの曲なのです。リヒテルにとってはピアノ演奏の原点であり出発点なのです。自身の体の一部の様な。だったらかえって親和性があるのではないかと思われるでしょうか。
私は幾人かのピアニストを見て来て気が付いた事がありました。それぞれのピアニストに得手不得手があるので全てにとは言えませんが、優れたピアニストは初めて楽譜をみて初見で弾き始めても弾いた曲の雰囲気を、あるいは内面を何時の間にか表現出来ているのです。これには舌を巻きます。また、そのくらいの感性と技術が無ければおよそピアニストなどと言う職業をこなす事など出来ないに違いありません。シューマンを初めてさらい始めたその段階でシューマンの和音や音色やシューマンの曲に見られるうつろいの陰りが鳴り響くのを目の当たりにして、最初からして既に曲の本質を手中に収められるような才能が宿っていなければおよそピアニストにはなれないに違いないと私は気が付いたのでした。
もちろん「テンペスト」を練習し始めた場面に立ち会った訳でも無く、練習中の音源が残っている訳でもないので推測にしか過ぎませんが、リヒテルの「テンペスト」も最初から既にしてート-ヴェンの「テンペスト」であったに違いありません。ですから、演奏が表現する音楽の印象としての親和性と慣れ親しんだ楽曲であることには何の関連性もないのです。
ピアノソナタ第17番二短調作品31-2「テンペスト」:(http://ml.naxos.jp/work/1232635)リヒテル(Pf)
その5に続く