リヒテルその5

リヒテルの「テンペスト」は親和性ではなくもっとより内省的なものなのです。
俯瞰すると言うと鳥瞰図の様に遥か上から見下ろす感覚を想像するかもしれませんが、リヒテルの演奏には上から見下ろし上段から降り下ろす様な構図はとんと見当たりません。全体を見通しながら、先に「テンペスト」の細部も素晴らしいと書きましたがそれはつまり、「テンペスト」の場合ならばこう言う言い方が許されると思いますが、「対話」の一言一言を大切に表現していると言う事になる訳です。大切に表現するのは、ピアニスト生活の初期の段階で触れた自身の投影でもあるからです。すなわち、より内なる自身に語りかけているのです。リヒテルにとって「テンペスト」は多分本人が意識するかしないかは別の問題ですが、非常に自身に近い楽曲であるのではないかと思います。
注意すべきは分身であると言うほどの思い込みは見られない事です。意外に感じるほど非常に冷静にリヒテルは「テンペスト」弾いているのが聴こえて来ます。派手にとか緊張感に満ち溢れてとか究極の精神性があるとか言う演奏とは違って聴こえたとしても間違いではなく、リヒテルが「テンペスト」を持って指し示すものはリヒテルその人の熱い思いではなく、淡々とした面を持った内省的な思いを演奏と言う形で表したと言えるのではないでしょうか。
もし、並みのピアニストが同じ立場にいたなら「テンペスト」は他のベートーヴェンのピアノソナタと違うもっと思い入れを懐く様な演奏になるはずで、他のピアノソナタと違った位置づけになってしまいます。
しかし、リヒテルの「テンペスト」が「悲愴」や「熱情」、初期のソナタ、中期のソナタ、後期のソナタより何がしらかの特別性があるとは思わないでしょう。ある聴き手にとってはカーネギーホールにおける米国デヴューを飾った時のあの凄まじい「熱情」こそがリヒテルのベートーヴェンであると言うかもしれませんし、また、別の聴き手はピアノ演奏の訓練の過程で弾かされる(いや勉強する・・・)第19番ト短調、20番ト長調の作品49の2曲の演奏にリヒテルのベートーヴェンを聞くかもしれません。
「テンペスト」が特別な、と言う訳ではないのです。特別ではないのですが、リヒテルの弾く「テンペスト」にリヒテルの人となりが聴こえて来るのはその様に耳をそばだて「過ぎて」いるからと言う訳でないのです。実はリヒテルは大変に内省的なピアニストだと言う事が「テンペスト」の演奏から垣間見えるのです。

ピアノソナタ第17番二短調作品31-2「テンペスト」:(http://ml.naxos.jp/work/6751786リヒテル(Pf)

その6に続く