イエルク・デムス その3
デムスのベートーヴェンのソナタの演奏は曲によって、あるいは演奏会によって出来不出来があると簡単に考えて良いのか疑問に思うところです。 思うに楽曲の違いや演奏会ごとの出来不出来よりもっと影響することがあるのだと思うのです。 それは同僚のフリードリッヒ・グルダの活き活きとしたベートーヴェンのソナタの演奏に影響を受けているのではなく、三羽烏が世に出て活躍を始めた時代の「若い」ベートーヴェン弾きの演奏はシュナーベルとかバックハウスのような厳格さとか、謹厳実直さとか、形式美のありようとか、そうしたゆるぎない大家達とは違ったベートーヴェンを弾く事が、必要だった、それが一つには躍動感とか、表現が正しいか分かりませんが、「若々しさ」とかであり、ウィーンの三羽烏は好むと好まざるとにかかわらずその道を駆け出したからだと言えると思うのです。
それにしても、デムスの演奏するベートーヴェンのピアノソナタを無条件で賞賛することが難しいのはピアニストを語るのが非常に難しいことにつながります。 つまり一曲の演奏だけを取り上げてそれでピアニストを語ることが出来ないと言う事です。 ましてや実際の演奏会の一夜限りのピアノの夕べでもって正鵠を射ることなど不可能に近いことです。 だけれどもその一方、一夜のピアノの夕べもそのピアニストが当夜聴衆に向かって差し出せた全てなのです。 その一夜限りの演奏の印象を持って何か語ることもけして間違ってはいないのです。 大変難しい命題がここにあります。 答えらしきものをここで出すことは出来ません。機会をもうけてそこのところは取り上げてみたいと思います。
デムスはローベルト・シューマンの曲を積極的に取り上げるピアニストです。 難物のピアノソナタ第2番作品22を取り上げていますから、シューマンに対する思いは深いものがあると思われます。 ト短調の激しい出だし、走駆の厳しさ、ソナタ形式のもたらす枠の中で飛び立とうとする指捌きを持って第2番を演奏しているのですが、これらが、しかし、魔性のとうとうたる熱い熱狂を指し示し流れていくのかと思いきや、奇妙に力のこもった弾奏をもたらすのです。 奇妙にと書きましたが、シューマンの古典的でない、ベートーヴェン的、モーツァルト的でない和音の錯綜をなぜか古典的な響きへ引き寄せようとするかの様な微細な硬直を感じさせるのです。 これはデムスのシューマンの演奏を否定的に捕らえて言っているのではありません。
シューマン:ピアノソナタ第2番ト短調作品22(https://ml.naxos.jp/work/2060027):イエルク・デムス(Pf)
つづく