ラローチャ その6

ラローチャはモーツァルトのピアノ協奏曲第25番がハ長調のただ明朗な曲ではなく陰りを持った音楽だと言いたいのです。 第20番K.466ニ短調と同質のものが25番にはあるのだと、いえ、20番が裏なら表には25番があるとでも言いたげであるのが感じられるのです。 穿った見方でしょうか? モーツァルトのピアノ協奏曲の中で25番が比較的演奏機会の少ない曲であるのは案外2曲の間にはこうした表裏があるからだとラローチャの演奏を聴いていると思えてきます。
リスト、ラフマニノフの名をあげるとおよそ剛腕ピアニストの十八番、抜群の運動神経と技巧とそして大きな手!二人の楽曲が真面目に芸術として語られはじめたのは20世紀もそろそろ終盤だという頃でした。 リストのロ短調ソナタはモーツァルトやベートーヴェンを継ぐものだと言っても良い深淵の様を持っているのに真面目に演奏され評価されたのは昨日のことでしょうか。 フランス・クリダがリストの真面目な全集を世に問うた時でさえも技巧のための曲との風潮は払拭されたとは言えなかったのです。
ラローチャはやはり己の限界を知っているのでしょう、彼らの楽曲の何にでも手を出したりしていません。
それでも、いくらかの楽曲を弾いています。 ラ・カンパネラがラローチャの手で鳴るとき、私たちはパガニーニがこの曲に込めたメロディーの戯れと弾んだ心持ちとを、リストが如何に遠い彼方へ右手を飛ばして表そうとしたのかを知るのです(右手が2オクターブを行き来するのです!、下の譜例写真参照)。 それも生真面目に表すのです。 テクニックの遊びとか超絶的なテクニックの見せ場などとは無縁の演奏なのです。 だけれど快い、高度な技巧を意識しなくても自然に楽しめる演奏なのです。
ラフマニノフの数少ない演奏も同じように技巧の為の演奏などになってはいないのです。
ラローチャが見事にアルベニスやグラナドスを演奏するものですから、素晴らしい他の作曲家達の作品の演奏を忘れてしまいがちになってしまっては勿体ないことこの上ありません。
バッハからロマン派の作曲家までも広いレパートリーを携えてラローチャはピアニストの生活を楽しんでいる様に思います。
バッハは静謐な佇まいを想わせます。 アレグロで流れる曲でもまるで静かにとどまっているかのようにさえ思えるのです。 曲は速度感を十分に、楽譜の指示の通りに保っているのですが、不思議なことです。 ラローチャのバッハ演奏には硬直化していない安定感があるからそのように聞こえるのかもしれません。そこには譜面の読み込みによる解釈と言う概念があまり感じられないのです。自然な流れ、自然な表現がそこにあるのです。 バッハと言う構築の化身の様な曲に対してもそうあるのです。 もっともこの言い方は象徴的な意味を含んでいるとご理解を頂きたいと思います。

(つづく)

「ピアニストは2オクターブの跳躍を要求されます。 今日ではピアノの 学習者でも弾きこなしますが、だからと言って2オクターブの跳躍が簡 単であろうはずがありません。 素晴らしく軽快に弾くピアニストもいま すし、超絶技巧の冴えを披露するピアニストもいます。 だけれどラローチャの様にリストのこの曲にしかるべき敬意をもって接 することの出来るピアニストは意外と少ないのです。」