ポリーニ その6
だからポリーニはテンペストを2回グラモフォンに吹き込んでいます。 他のソナタは重複していないのに、です。 ポリーニにとって「テンペスト」だけは録直したかったソナタだったと思います。 何かの偶然や勧められたからとかではなく、また作品31の3曲がセットだから16番と18番を弾くのだから連続性を持たせるために17番も再度録音したなどと言うもっともらしい理由ではないのです。 ポリーニ本人にとっては録直しは自明の事だったのです。 ポリーニでさえも、いえ、ポリーニだからこそ、その様に考えたに違いないと推測するのです。(*注:他にワルトシュタインソナタも2度録音している。)
その録直しの事を考えながら、ポリーニにとってもベートーヴェンのソナタは克服しなくてはならない山脈として捉えていたのだと気が付くのです。 若い時に後期のソナタなど演奏するので前期、中期のソナタもポリーニにとっては何の障害もなくやすやすと弾ける楽曲なのだと、これもそんな風に誤解されてしまうのです。 ポリーニ自身は超えるべき大きな山脈と対峙しているその厳しさに身をさらしながら挑み続けたのです。 一曲一曲がユングフラウヨッホでありアイガー、メンヒ、マッターホルンであるのに聴衆はその厳しさに気が付かなかったのです。
又、少し違った見方をすることが出来るかもしれません。 ベートーヴェンが生涯を通じて作曲した32曲のソナタなのだから、自分の生涯をかけて全曲の演奏を残す様にと考えたのかもしれません。 自身の生涯とベートーヴェンの生涯を重ね合わせたと考えるのはどうでしょうか。 ただし最初に後期のソナタを録ってしまったのでベートーヴェンの生涯を遡るようにレコーディングして行こうとしたのだと。 まあ、こんな風に考えるのも面白いかと思います。 ポリーニは度々ベートーヴェンのピアのソナタを演奏会で取り上げていますので、こんな考え方は正規のレコード(CD)録音に限って言えることかもしれません。
それでも生涯に渡って時間がかかってもベートーヴェンのソナタの全曲演奏がレコード(CD)として完成したのは大きな仕事であり称賛に価するのだと声を大にして言いたいのです。 それらは全てが貴重なものなのです。
皮肉な見方をする人たちは19番や20番の取るに足りないソナタまで入れなくてはならなかったので全曲録音と言う偉業が達成されるのにこんなに時間がかかったのだと言っています。
その様な皮相な見方はどうなのでしょう。そうした視点から見ればポリーニのベートーヴェンのソナタの演奏では、同じように小さなソナタに属するであろう第25番のソナタの方が他の重厚長大なソナタよりもよほど何かの呪縛に捕らわれずにより自由に弾いているのです。 そして明確なベートーヴェンへの共感が素直に感じ取れるのです。 ピアノ学習者が弾く様なソナタはポリーニの技術力には相応しくない。 小さなソナタはベートーヴェンの様な大作曲家が示す楽曲にしては内容が希薄すぎて聞く価値など、あるいは弾く価値など無い、ベートーヴェンも言うべき多くの言葉を持っていないではないかと平然と言う様な価値観が、結局はポリーニのベートーヴェンのソナタ全作品の演奏を射当てることを妨げて、ポリーニと言うピアニストの主義主張を、恒常的に見誤って今日まで来ているのだと言う事にそろそろ気が付いても良いのではないかと思うのです。
(つづく)
ベートーヴェン : ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 「テンペスト」 Op. 31, No. 2
1988年録音(https://ml.naxos.jp/work/4539980):ポリーニ(Pf)
2014年録音(https://ml.naxos.jp/work/7107130):ポリーニ(Pf)