ブレンデル その7
だからと言って筆者はクライスレリアーナの演奏はブレンデルの演奏にとどめを刺すなどと言うつもりはありません。 他のどのピアニストもブレンデルの様に弾くべきだと思う事もありません。 ブレンデルが目指して走駆する静寂への道のりはブレンデルだけもので、他のピアニストが目指しても、多分支離滅裂に響くだけになってしまうでしょう。
ブレンデルのクライスレリアーナへのアプローチは「静寂に向かって収斂されていく演奏」により本質を求める演奏です。 方向性が明確ですので、クライスレリアーナの演奏にとめどもない幻想性などはあまり込められているとは言い難いのではないでしょうか。
ハイドンのピアノソナタをブレンデルは演奏会でも取り上げ録音もしています。 いささか大げさに言えばそれはモーツァルトの聡明さとベートーヴェンの誠意をあわせもったとでも言えば良いのか、その様な演奏です。 ハイドンのピアノソナタはもっと聞かれて良い曲です。 ブレンデルは「美しい曲が何曲かあります」と言っているようですので、ハイドンのソナタ全曲に興味を持っているわけではないのでしょうが、それにしても真面目にハイドンのソナタに取り組む姿勢と演奏はこう言って良ければ非常に魅力的です。
ブレンデルの演奏は一言で言えば(一言でなどと言うのは胡散臭いかもしれませんが敢えて、)誠実な演奏です。 ソナタの演奏にありがちな大な構えとか力感とかに捕らわれていないのです。 ひたすらにハイドンのもたらす一音一音を正しく送り出してゆく演奏なのです。 それも美しい音色を伴ってです。 改めて気が付くのはブレンデルの音の美しさです。 明解でありながら怜悧ではない、うっとりする訳でなく悟性で捉えられる音でありながら心が豊かになる感性を喚起する響きがあるのです。 そうした音色はブレンデルの演奏するシューベルトにも良く表れているのです。
ブレンデルの弾くシューベルトには思慮深さがあります。 思慮深さと言いますが、楽譜の分析と解釈を入念に行うと言う意味合いの思慮深さではありません。 演奏する段階になった時、ブレンデルは心の趣くままに指を走らせるピアニストなのです。 ブレンデルに対するいくつかの誤った筆者の考え方を、筆者自身がそうではないと何度か訂正して来ましたが、「実は心の趣くままに指を走らせるピアニストです」と言うのが一番上手な言い方だと思います。 心の趣くままに、しかし、思慮深く指を走らせるのです。 いつもの通り形容矛盾を起こしているかもしれませんが、心の趣くままであることと思慮深さは対立する言葉ではないと思うのです。 「思慮深く、しかし、心の趣くままに」と書けばさしずめローベルト・シューマン風の矛盾を抱えた楽曲指示になってしまいますが、ブレンデルはそんなピアニストなのです。
思慮深さのあるシューベルトの演奏とはシューベルトの内声に耳を傾け続けていると言う事です。 楽典の読み込み、楽譜上、楽曲上の内声と言う捉え方でも良いとは思いますが、内なる心の声と情緒に耳を傾け続けているとの捉え方を感じて頂けた方がシューベルトの在り様により近づけます。 鮮明な音色にブレンデルはそうした想いを込めてシューベルトのソナタを差し出したのです。シューベルトの演奏についてまだまだ話を続けたいのですが、長くなりますので、又いずれかの機会にしたいと思います。
(つづく)
例によって筆者の手持ちのヘンレ版。 ブライトコップ、春秋社、ペータース、全音出版は積み重ねた資料の山の中で楽譜同士の比較は出来なかった。