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クラウディオ・アラウ その4
アラウのレパートリーは広く、多様な楽曲に力量を発揮してみせます。再びアラウの言葉を取り上げて見ましょう。「音楽の勉強でも一人の作曲家だけを専門に取り上げるのは感心しません。音楽家としての視野を広げれば広げるほど、作曲家一人一人の作品を、より良く弾けるのです。そして一人の作曲家の全作品を研究する事が大切です。」アラウはこの様に言っています。何かを狙って、あるいは流行だから、一人の作曲家の専門家になってもそれだけでは良い演奏家にはなれないと言っています。ここでも全てを見通せる様な勉強が大切だと言っています。アラウの幅広いレパートリーはこうした全人的な考えの元に構成されるものなのです。ただ単に弾く技術を持っているから弾くと言った安易な考えで多様なレパートリーを維持しているのではないのです。そうしたアラウの言う事が良く分かる演奏があります。
それはシューベルトの最後の難解なピアノソナタ変ロ長調D.960です。そもそもシューベルトの長大な最後の変ロ長調ソナタが難解なのは、このソナタが外に向かって開かれていないからです。シューベルトはまず自身の内側に向かって語りかける様にこのソナタを作曲したのです。端的に言えば聴衆に聞かせる為のソナタではないのです。ですからピアニストはこのソナタをどう弾いて良いのか戸惑い、分からなくなってしまうのです。ピアニスト自身が自分の内に向かって語りかける様に演奏したとしましょう。すると大変独りよがりな演奏になる危険性がますだけです。例え内に向かって弾いても、外の聴衆に訴える演奏になっていなければ演奏芸術としての音楽は成立しません。例えば晩年のホロヴィッツが残した同曲の演奏がその方向を示していますが、ホロヴィッツの名誉の為に言えばけして聴衆をないがしろにする様な内向きの演奏ではありません。なかなかの演奏だと思います。アラウは音色の豊かさで変ロ長調ソナタの雄大さを内に向かって語りかけますが、語りかけが全人格的な広さを持っているので、傍にいる聴衆にも伝わるのです。何やら抽象的な言い方だとお思いですか。具体的に一つ述べれば、厚みのあるゆったりとしたソナタの開始の音の豊かさが、周りに居る聴き手の存在を無視せず、むしろ聴衆を包み込み始めるのです。自からの内なる言葉の独白であるはずなのに、それが聴衆と共有されるのです。幅広い見識、シューベルトのもっと他者に付きつける様な楽曲、ケンプが意志を持って取り上げた「さすらい人幻想曲」の様な曲を「研究」したからこそ、外に向かうシューベルトをアラウは理解し変ロ長調のソナタを聴衆に委ねる事が出来たのです。研究と言うと学術的な論理と技術を連想しますが、もう少し人間的な感情の表出の為の思考だと考えて頂ければと思います。なぜシューベルトが自らの内なるものへ語りかけたのかとか、シューベルトの変ロ長調のソナタがなぜ穏やかに大きな起伏を持たずに、あれだけ長大なソナタになったのかなどの問いかけを繰り返した、その結論としての演奏であったのだと思うのです。
シューベルト ピアノソナタ変ロ長調D.960:(https://www.youtube.com/watch?v=fS_FkrU4BQU)クラウディオ・アラウ(Pf)
その5に続く