クラウディオ・アラウ その6
1991年にアラウが亡くなった時ほど大きな喪失感を感じた事は無い様な気がします。この誠実な巨匠ピアニストの後を継ぐものがいないと言う現実(弟子がいるとかいないとかではなく)を私は重く受け止めてました。
一人のピアニストを高く評価したり、好きであったり、尊敬したりするのは、もちろんその演奏が素晴らしく共感出来るからに他なりませんし、発する言葉が演奏を具現化しているからでもあったりします。言っている事と演奏そのものに大きな違いがあると、演奏そのものは素晴らしくてもストンと腑に落ちないものです。
アラウにはそうした事がありません。偉大なピアニスト達は皆がその様な矛盾を持っていないものですが(例外はあるかもしれません)取り分けてもアラウはそうです。
テクニックは解釈を具現化する手段であり、ベートーヴェンのソナタは一生かけて勉強するものであり、モーツァルト、シューベルトもそうであり、ドビュシーは深さと精神性がありと、アラウの言葉は続きます。それはまさしくアラウの演奏そのものを自ら指し示しているのです。
コンサートは重要と述べ、日常の行いでは無く常に一つの事件なのだと受け止め、ある時は精神的な行き詰まり感じて精神分析の治療を受ける、それはコンサートを最良の物にする為に必要だと思ったからだと言う「真摯」さには、聴き手の側も姿勢を正して臨まなくてはならないと思います。
私にとってその様にアラウは上でも述べました様に「全人格」的な尊敬すべきピアニストであり、それ以上に人間的にも優れた人物に思えるのです。アラウの舞台に接しているとその感覚が伝わって来ます。
一日にピアノに向かうのは最大限三時間にしているアラウは、例えば同僚の女流ピアニストの数が少ない事に不満をもらし「テレサ・カレーニョは4度も結婚したが舞台に立ち続けた。」と結婚によりキャリアを捨てるのは如何なものかと苦言を呈していたりします。根底には偉大なピアノ演奏に男女の区別など無いのだとの思いがあるのでしょう。
再び生まれ変わっても現在に生まれたいとアラウは言っています。願わくば本当に今一度舞台に立つアラウの姿を見たいと思います。そしてあの心を揺さぶる低音の響きの中で音楽に身を委ねたいと思います。永遠に不可能な夢ですね。
他にもアラウに関してはいろいろと書かなくてはならない事、いえ書きたい事はたくさんありますが切りが無いのでこの辺にしてアラウの章を終わりたいと思います。
次の様に述べておきたいと思います。クラウディオ・アラウこそは、音楽と聴衆を乖離させること無く結べるピアニストだったのだと。
クラウディオ・アラウ (完)