リヒテル その7
リヒテルの他の作曲家の演奏に触れて、例えばシューマンの楽曲に触れて言えるのは、シューマンの何処か儚げな、あてどなさなどではなくよりもっと奥深くの詩情性を探り当てる様に聴こえる演奏に出遭うのですが、それは何処から来ているのでしょうか?
それは人間を信じているから、いえ、人間は信じるに値するものだという思いから来る様な気がします。だから、幹の太い詩情的で豊かな演奏が聴けるのです。
有名な話ですが、リヒテルはヤマハのフルコンサートグランドピアノを主に使って演奏を行っています。ベヒシュタイン、ベーゼンドルファー、他ならぬスタインウェイではなくヤマハを使っているのです。ヤマハのCFはけして世界の舞台で見劣りのするピアノではありません。だけれどもリヒテルが御執心に及ぶような特別なピアノでもないでしょう。
リヒテルがヤマハを使う主な理由は人とのつながりです。調律師を筆頭にリヒテルはヤマハのピアノに関わる人達に信頼を寄せたのです。ピアノそのものが高性能だからとか特別に音色が気にいったとか非常に弾きやすいから、もちろんそれも要素の一つとしてあるでしょうが、と言う様なピアノ自体の能力を問題にしたのではない訳です。
リヒテルは全面的に信頼を寄せたものでなければ心を開かない、胸襟を開かないピアニストなのです。恐らくリヒテルは舞台に立つ時に聴きに来ている聴衆をも信頼してピアノに立ち向かっている様に思います。リヒテルはそう言うピアニストなのではないでしょうか。
ブリューノ・モンサンジョンに自身のドキュメンタリー映画を撮影させたのも、そうした信頼があったからだとは今更言うほどの事でもないでしょう。リヒテルが人懐っこい面を持っていると報告されていますが、それは信頼に足る人物の前でのことでしょう。
そうでない場合にはリヒテルは「謎」そう、本に書かれているように「謎」なのです。
人間的な信頼の懐けない人の前ではまさしくリヒテルは「謎」になってしまうのです。
今でも強く印象に残っているのは、ピアノ脇に専用の照明を置かせ、舞台を照らすライトの類を全て落として辺りを暗くして、しかも譜面台に譜面を備え、譜めくり係まで待機させて演奏に臨んだリヒテルの姿でした。それまでは、普通の何処にでもいるピアニストと変わらない演奏スタイルだったリヒテルが何時の間にかそんな独特な演奏スタイルで舞台に立つようになったのです。
本人も理由を言っていますし、周辺の人々も、私達聴衆もあれこれと憶測を飛ばして姦しい事この上ないのですが、リヒテルはただ、己自身を信頼に足りるピアニストにして舞台に立ちたかったから、その様にしたのだと思えてなりません。
今でも忘れられないエドワルト・グリーグの抒情小曲集が一夜のピアノの夕べの全曲だった演奏会の心の底から得た喜びと安らぎを思いだしながら私は考えるのです。ベートヴェンのピアノソナタの様な偉大な曲を並べたプログラムももちろんリヒテルらしい演奏曲目であるでしょうが、もしかしたらリヒテルはまるで他愛も無い、一見取るに足りない様な曲でこそ己を解き放てたピアニストなのではないかと考えるのです。
リヒテルこそは偉大なピアニスト達の中にあって、私達が高みに見上げたりする事の必要ない同じ地平の上で聴く事の出来るピアニストであったのではないでしょうか。
スヴャトスラフ・リヒテル (完)