エミール・ギレリス その4
ベートーヴェンのピアノソナタ作品10-3、第7番の第2楽章のラルゴ・エ・メストの終盤に現れる強弱の細かな指示。 ギレリスはこうしたベートーヴェンの指示を最良の姿で表現します。 この曲の演奏に従事できるレベルの弾き手なら誰でもベートーヴェンのこの細かな指示を守ることが出来るのは当然だと言うでしょう。 この強弱を表現できて当たり前だし、ギレリスだけがしている訳ではないと言われると思います。 ギレリスがこの演奏で現すのは物理的な強弱もありますが、良く制御された柔軟性なのです。 メリハリを付けるという言い表し方とは違う、楽想の要求に応じた豊かさがここでは聴こえてくるのです(楽譜写真参照)。
第8番「悲愴」ソナタもグラーベの出だしの和音が苦渋の重みをもって鳴り響くわけではないのです。 出だしの7つの音の重なりに続く和音の重なりを貫く演奏がもたらすものはどちらかと言うと流れでしょうか、疾走感でしょうか、を重視しているような演奏です。 アレグロ・デ・モルト・エ・コン・ブリオの走駆に入る前のグラーベで疾走感? いえいえ、それへの疾走感を予感させる楽想のつながりがあるということです。 その代わりこの演奏はベートーヴェンの「苦悩」が(苦悩を悲愴ソナタに求める向きには)少しばかり軽くなっているのです。
ところで初期のソナタにおける作品2-2のフォルテにおける硬質感と作品10-3における柔軟性の相反する演奏のこうした違いがなぜあるのか、悩むところです。 この文書を読むだけでは誰か他のピアニストを並べているように感じるかもしれません。 作品2-2はドイツグラモフォンによるスタジオ録音、10-3はライブ演奏だからと考えるのがもしかしたら一番理にかなっているかもしれません。こうした違いをむきになって分析してもニュアンスの差異ばかりに囚われるだけで、意味をあまり見出せない事だというのが適切かもしれません。
ギレリスの本来あるベートーヴェンのピアノ演奏は明らかに作品10-3、あるいは第12番変イ長調作品26のようなライブ演奏に有るのではないかと思われます。 スタジオ録音は何かやはり「鋼鉄のピアニスト」に囚われた編集作業や音作りがされているのかもしれません。専門家の意見を聞きたいところであります。
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第2番 イ長調 Op. 2, No. 2(http://ml.naxos.jp/work/4975261)エミール・ギレリス(Pf)
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第7番 ニ長調 Op. 10, No. 3(http://ml.naxos.jp/work/4975269)エミール・ギレリス(Pf)
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第12番 変イ長調 Op. 2(http://ml.naxos.jp/work/4975271)エミール・ギレリス(Pf)
つづく