ホロヴィッツ その5
しかも、ホロヴィッツはマーラーの交響曲1曲よりショパンの短い1曲の方がよほど偉大なこともあると言っているのです。 偏向した見方、確かにそうかもしれません。 筆者は何もソナタの様な「立派な」作品を弾かなければ最高のピアニストとは言えないなどとは毛頭思っておりませんが、やはりピアニストたるものベートーヴェンのソナタを如何に弾くかで座標が見えてくるとの思いはあるのです。
ホロヴィッツはベートーヴェンの導きを考慮することなく疾駆します。 それはそれで見事な演奏です。 見事ではありますが演奏者とは作曲家が楽譜に書き留めた意思を代弁する者であると考えるならば、それが再現芸術における演奏と考えるなら、これでは大変にまずいことだと言う事です。
ですが、ホロヴィッツほどのピアニストになると、自身の内面に確固たる領域を持っており、ことさらに「ベートーヴェンの」ソナタを演奏しなくても「ホロヴィッツの」ベートーヴェンのソナタを演奏すれば事足りると考えられますので、それはそれで納得できるものです。 何よりもベートーヴェンのソナタを聞いた後の聴衆の喜びようは大したもので、ピアニストの「個性」で聴かせる楽曲がこれほどの存在感を生み出せるのかと感心するばかりです。
ホロヴィッツは嬰ハ短調ソナタのプレストをあまりペダルの響きに頼らず弾いています。 壮大ににぎにぎしく雷鳴を轟かせ、限りない機械的高速運動に酔う様な演奏はしていません。 ホロヴィッツはベートーヴェンの導きに無頓着ですが、ベートーヴェンの音符にはしかるべき敬意を払っているのです。 ぺダルを踏むことによっておこる混濁とあいまいさ、場合によってはペダルの響きによるレガートの煙幕を避けています。 こうした演奏においてはピアニストの良心という言い方をしますが、ホロヴィッツの演奏にベートーヴェンの導きはなくとも良心はあるのです。 ピアノの効果とか、どうすれば歌うのかとか、誠にホロヴィッツほどピアノに精通しているピアニストはいないのではないか思わせるピアノの扱いを披露してベートーヴェンを演奏しています。
ホロヴィッツもなんやかんやの批判や誤解や偏見などをいだかれるピアニストですが、それでも極普通のバランス感覚は持っているのです。 ホロヴィッツほどのピアニストを相手に普通のバランス感覚と言うのが正しいのかそこから話を煮詰めなくてはなりませんが、神経症気味なピアニストで一般的な語り口にならないピアニストであることを考慮しても、ホロヴィッツが格別同世代の同僚たちと違う何かをやらかしたり、ひでかしているわけではないのです。
超絶技巧の持ち主をあれこれ特別視する傾向がフランツ・リストの時代から今日に至るまで続いていますが、ホロヴィッツは私達が懐いているよりずっと普通のピアニストであると言う事を忘れないようにしなくてはなりません。
そう言いってもホロヴィッツが聴衆に与えるものは、一部、あるいは半分、もちろん全部ではありませんが、ホロヴィッツが受け継いだ時代の輝きであるのは確かです。 もちろんその受け継いだ時代の輝きとはヴィルトゥオーゾの時代を指すのであり上の述べたようにフランツ・リストの時代から続くものです。
しかし、ホロヴィッツは20世紀に生まれ20世紀を生きたピアニストです。 19世紀のヴィルトゥオーゾの十字架を背負っているわけではありません。
(つづく)