スコダその2
それは「離鍵」についてだ。 当たり前の事だがピアノは「打鍵」しなければ発音しないから「打鍵」について語らない指導書、技術解説書、ピアノ教師はいない。 一音目を打鍵しそれが音楽として成立するためには二音目の打鍵をしなくてはならない。 二音目を如何に打鍵するかを技術書やピアノ教師は指導する。 一音目を打鍵したら即座に指を鍵盤から離し二音目を打鍵するから、いちいち鍵盤から指を離す「離鍵」まで言及する必要が無いので、その辺りを問題にしないし触れていないのだ。
しかし、偉大なピアニスト達の「秘密」の一つはこの「離鍵」にある。 難解無茶ぶりを要求するショパンの練習曲は早いバッセージが多くを占める楽曲で構成される。 この練習曲はその早い指運び故に明晰な響きを出すのは至難の業だが、あまり熟達していない弾き手が演奏すると往々にして濁って聞こえる原因の一つに、二音目を打鍵した時に一音目の鍵盤からまだ指が「完全に」離れていない、音が重なり合ってしまう事がある(もちろん、ショパンの練習曲を弾く能力が無い生徒に課題として出すわけはない)。 ピアノ教師は運動能力を上げるようにまだまだ練習が足りないと指導し、早い打鍵の場合は如何に手のポジションの移動を確保するかなどの出来ていない部分を指摘して、次回までに克服してくるようにと無理を言う(本当に無茶ですよ先生!)。 ここでは次から次へと打鍵する運動能力が問題であり「打鍵」の指導が徹底される。 もちろん指導はそれで問題となるところはない(問題なのは生徒の方である!)。 「離鍵」は「打鍵」の後からついてくる結果でしかないからだ。
とは言うものの考えてみると鍵盤から一音目の指を離さず二音目を弾くことは(楽譜が要求する場合もしばしば当然あるけれど)あり得ない。 ここで如何に素早く鍵盤から指を離すか離さないかが重要になってくる。 つまりどのように「離鍵」しているかが、ピアニストの個性を司る(つかさどる)一端となっているのだ。
打鍵以上に離鍵は音色をある程度決めてしまう重要な要素の一つなのだ。 第一音目と第二音目の間にあるタイムラグがいかなる発音で埋められているか(離すタイミングが遅いか早いか、一音目の音が残っているか否か、ペダルをどのタイミングで踏んでいるかなど多様な影響が一音目と二音目の間には横たわっている)で楽曲の雰囲気はかなり違ってくる。
この離鍵は完全にピアニストのコントロールの範疇に入りきらない。 それこそ小さなピアニストの卵から偉大なヴィルトゥオーゾに至るまで個々の弾き手が持って生まれた才能によっている。 打鍵は苦しい修行を積み重ねて会得していくことが可能だが、付帯して存在する離鍵はあくまでも打鍵した後の後続する音の移行に伴う結果でしかない。 もちろんピアニスト達は離鍵もコントロールするが、打鍵の結果とその見返りにならざるを得ない。
長い話をしてしまったが、スコダがシューベルトのソナタの演奏で歌うとはどの様な事を表現しているかと言えば「離鍵」の「遅さ」に寄っているのだ。 上の言い方で離鍵は早い方が良いと解釈していたとしたら筆者の文章力の無さなのでお許しを頂きたい。
(つづく)