スコダ その3

離鍵の遅さと言っても明確に分かる様な遅さではありえない。 離鍵が目立つほど遅ければその時既に演奏は崩壊している。 例えようが難しいが、なんとなく指さばきがゆったりしている様に「感じる」程度であると思って頂ければ良いのではないだろうか。
言い方をもっと現実的に言うなら鍵盤を「保持」する、いやこの場合は「音を保持する」という言い方がより適切であろう。
スコダのシューベルトのソナタ演奏は鍵盤を、つまり音を「保持」することにより歌う要素がより膨らみ、えも言えぬ独特の情感が表現されていると言える。 最初に述べたようにスコダのシューベルトはこうしたところと、決然とした部分との対比が特色となる。 決然としたなどと書くと随分勢いがついているとか、力がこもっているような印象を浮かべると思うが、スコダの演奏はそんな派手なところはない。 歌う部分を支えている様に響く。 試しにハ短調D.958のソナタを聴いてみると良いかもしれない。 生真面目に、丹念にスコダはこのソナタを弾いている。 およそハ短調のしかもシューベルトが作曲したピアノソナタともなれば、即座にベートーヴェンのハ短調のソナタへの関連を思い浮かべるだろうけれども、シューベルト自身も強いあこがれと影響を受けながらも力こぶを入れて作曲している訳ではない。 あるのは厳しさと救いと、百万回の繰り返しであるがシューベルトの「歌」である。

*シューベルトの楽曲は「歌う」がキーワードで各種の論評でも常に歌心とか歌が感じられ  るとか表現され手垢が付いてしまった台詞かもしれないが、「歌」は大変に重要なキーワードである。 シューベルトが歌曲王だからではない。 作曲する曲に常に「歌」があるから歌曲王と呼ばれ代名詞になったのだ。

だからスコダのシューベルトの演奏には歌う事とそれに伴う「安らぎ」が深く呼応して響くのが感じられる。 連弾しているデムスとの演奏を聴いていてもデムスの古典的な響きへの回帰と同質な響きを聴くことが出来るけれど、デムスのタッチとは少しだけ違った雰囲気が感じられるのはそのためである。 デムスの演奏に「歌」が無いなどと言っていない。

私達は気が付かないうちにいつの間にかピアニストは精神性だけで曲を奏でていると錯覚してしまうが、大きな勘違いである。 ピアノに限らず楽器の演奏は運動である。 鍛え抜かれた運動能力が無ければ楽器を操る事は出来ない。 さらにより高みに登る為には特別な才能が必要となるが、それを支えるのは運動能力である。 やわらかい筋肉とか、良く広がる指とか、反射神経とか、発達した四肢、その他諸々の要素が必要である。 端的に言えば、これらに恵まれていなければおよそ趣味で楽器に親しむ以上の事を求めるのは無理がある。
スコダの「離鍵」もスコダの様にやろうと思っても出来ないものだ。先に言った様に打鍵の結果としての離鍵であり、持って生まれた才能であるとしか言いようが無い範疇に入るものなのだ。
(つづく)

ピアノ・ソナタ第19番 ハ短調 D. 958:(https://ml.naxos.jp/work/6661053):スコダ(Fp)