スコダ その4

そこからスコダの独特の離鍵はスコダの個性と言う事になるのだ。 他のピアニスト達も同様にそれぞれの「離鍵」の個性を持っている。 個性的な離鍵をしていると言えば良いのかもしれない。 あくまでも打鍵の結果としてなので強く強調はしないし、それゆえ離鍵について述べられる事が滅多にない事は今一度ことわっておきたい。

もう一曲シューベルトの変ロ長調D.960のソナタを聞いてみよう。 先にスコダの姿勢を述べておくが、スコダは第一楽章の冒頭に戻る繰り返しを行っている。 シューベルトが楽譜に厳然として残したものを尊重する姿勢だ。 このソナタでも丁重な弾き振りを聴くことが出来るが、よりフレージングにさりげない気配りが見られる。 冒頭からスコダの「歌う」事柄について触れているが、音の「保持」以外にどのような事が「歌う」について考えられるだろうか。
私達は気が付かないうちにいつの間にかピアニストは精神性だけで曲を奏でていると錯覚してしまうが、大きな間違いである、と再び述べておこう。 「歌う」事はまた、一つの表現でありそれはテクニックでもある。 「精神性があれば」歌えるのだと単純に思いそう信じる事は純粋で美しい思いかもしれないが、演奏行為は技術の工夫と鍛錬とイディーの塊でもある。 すなわち人為的なものでもあるのだ。 従って「歌う」ことも技術を駆使することにより表される側面を持っている。
スコダはシューベルトの変ロ長調ソナタの演奏で巧みなフレージングを行っている。 フレージングについて説明を入れると凡長になるので、詳しくは説明しないが、ここでは一定の音節のまとまりと考え、音節のまとまりが持つ抑揚ととらえる(抑揚と言うとアーティキュレーションの説明もとなり数ページは必要になるので解説は控える)。

*フレージングとアーティキュレーションはしばしば演奏テクニックの解説に出て来る。ほとんどの場合二つはまとまった一つの項目の中で解説、指導されている。

しばしばスコダは大きな息の長い音節をつかみ取って抑揚をつけて弾き出していく(フレージングを施していく)。 すなわち「歌って」ゆくわけだが、その在り様が大仰ではなく何気ない。 スコダの演奏を聴き始めるとドイツの巨匠ヴィルヘルム・ケンプを思う時に浮かぶ「密やか」と言う事言葉が思い起こされるが、スコダの演奏はそうしたピアニストの秘密に触れるようなものではなく、もっと極普通のさりげないものだ。
つまり自然なのだ。どの様に? ウィーンの香りが控えめに立ち上るように? ゲミュートリッヒカイトを込めて? 確かにゲミュートリッヒカイトをスコダは体現したと先に述べている。 何気なく、さりげない様を自然だと表現しても問題はないだろう。 だけれどもシューベルトのピアノソナタは一つの空間の中に浮かび上がる「歌」で、その歌は創造的で自由を愛するところに浮かびあがるものだ。 それを自然だと言う事にしたい。 格別な何者かではなく、シューベルトが望んだように、窓辺におかれた一輪の花の様に。

シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D. 960(異なる3台のピアノによる演奏):(https://ml.naxos.jp/album/GEN12251)
:バドゥラ=スコダ