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クラウディオ・アラウ その5
そうした全人格的な演奏が表れる例にフランツ・リストのロ短調ソナタも上げておきましょう。今でもリストは眉に唾付けて語られてしまう作曲家です。大分誤解が解け始めていますが、ピアノリサイタルの曲目にリストが入るとどうしても「生真面目な」演奏会ではない様に受け取られかねません。21世紀のこの後に及んでもまだそんな風潮が払拭されていると言い難い様に思うのは私だけでしょうか。
リストのロ短調ソナタはピアノ音楽史に残る大変な名曲です。ローベルト・シューマンに献呈されたこのソナタは標題を持たない単一楽章の曲です。アラウは「リストの弟子たちの間ではゲーテのファウストとの関連があると容認され、了解事項だった。」と言っています。アラウの演奏は誠にゲーテのファウストを表現する見事な演奏で・・・いえいえ、アラウの演奏から聴こえて来るのは純粋に楽曲そのものへの共鳴であってロマン派にありがちな標題音楽とはまったく違ったものです。ここではファウストよりも、まるでベートーヴェンの最後の一連のソナタの様な語りかけが聴こえて来るのです。アラウがどの様な発言をしても、ただ音楽そのものを表現するのがアラウの演奏の本質だとロ短調ソナタの演奏は教えてくれます。そこにけれんみのない全人格的な演奏が表れるのです。リストを弾く場合にはどうしてもテクニックの事に話が傾いてしまいますが、アラウの演奏は大変なテクニックを要するソナタの何処に難所があるのかなどまるで気にならない流れを持っているのです。嵐の様な通過点も嵐が来ているのだと思わせない様に弾き切ってしまうのです。
フランツ・リストはある時「群衆というのは鉛の海の様に、火には簡単に溶けるのに(簡単に熱狂する)、動かすそうとすると大変重たい。動かすには労働者のごとき腕力が必要だ。」と言ったそうですが、アラウのロ短調ソナタの演奏の何処に腕力など感じるだろうかとそんなふうに捕えても良いと思います。もちろん素晴らしいフォルテの響きや走駆は力強いのですが、「腕力」を使う、力ずくの演奏を感じる事は無いと言う事です。敢えて言えば、自然に演奏に感化されているのに気が付くと、そんな感じでしょうか。まるで流行りものであるかのような熱狂的な音楽界を抱えた当時のパリではリストが「聴衆」とは言わず「群衆」と言った事から分かります様に、現代の音楽需要とは違った状況だったのでしょうが、リストの様な優れた弾き手でさえ「腕力」を意識しなければならなかった、そうした「群衆」が当時のパリの聴衆だったからこそリストの上の様な発言が出たのだと思います。
アラウのリストは間違いなく第一級の芸術作品としてのリストを念頭に置いて(パリのスノッブな)「群衆」ではなく聴衆に聞かせてくれる見事な演奏だと言っておきたいと思います。
リストのピアノソナタロ短調 S178/R21:(http://ml.naxos.jp/work/4761513):クラウディオ・アラウ(Pf)
その6に続く