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グレン・グールド (その6)
本人を乗り越えて、あるいは無視して独り歩きを始める「発言」はどの社会や組織、業界でもたくさんありますし、ひとり、グールドだけの事では無いのですが、天才ピアニストの「お言葉」は、効くのです。非常に理知的で聡明な発言は特にクラシック音楽の世界では、黄金の重みを持ちやすいのです。
ロックスターやポップスの演奏家が発言しても「おいおい、何を気取っているのだ。」で済む話が、千金の重みを持って流布するとは先に述べた事の追記です。
そもそも、グールドに限らず、演奏は本来であれば自分の気に入ったように演奏したいし、するだけの事なのです。ちょっと意地悪い見方をすれば、その様にしか弾けないし、演奏家の能力の限界が、あるいは特徴が演奏を決めて行くのかもしれませんが、いずれにしろ、多分に理屈は後付けでしかないと言える様に思えてなりません。
良くテニスの試合後、選手に「後半のショットは非常に冴えていましたが、なぜでしょう?」などとインタビューしている場面を見ますが、選手が感じた様に動いただけで何か理由があるとは思えません。「なぜか」身体が動いたが本音である様に思えますしそれが正解ではないでしょうか。何か理由を述べたにしても、選手自身も本当の理由は分からない、思い付いた理由を口にするだけだと思います。思い付いた発言が的を得ている場合も勿論有りますが、グールドが展開する理屈もそのたぐいの様に感じます。
また、グールドのレパートリーに関してもいろいろと「過ぎる」理由付けが行われていますがグールドが言う様な複雑な理由があるのでしょうか?あるいは周りが追加確認したり、推測する様な意味合いが潜んでいるのでしょうか?
ショパンを弾かないのは、単にショパンが好きではないだけの話であって、深読みする必要はないのではないでしょうか。あるいはショパンの楽曲が彼の精神を逆なでする、強迫神経症のスイッチになっているのかもしれません。(実はグールドはショパンが好きなのだと言う話ですが、外に向かって放つショパンは神経が痛むのかもしれません。)
グールドはこの世代の「怒れる若者」だと解釈するのは如何でしょう。既成の路線に反目する、しかも、グールドは強迫神経症を患っており枠の中に押し込まれる事に拒否反応を示します。それでもその怒りは何処から来るのですのでしょうか?思想信条、あるいは感情の問題なら自身の哲学に従えば良いのですが、その感情にまで影響を与える病が怒りを誘発するとしたらどうしょうもないではありませんか。
そしてお気に入りの作曲家シェーンベルク達などの近現代の先達を頼りに隠蔽工作の理論を展開するのです。お気に入りだと発言する近現代の作曲家の作品を実はそれ程演奏会で取り上げたり、レコーディングしなかったりするのですが、近現代の作曲家のもたらす論理、作品のもたらす問題性などが隠蔽工作にはもってこいだからだと見るのは皮相な見方かもしれませんがそう考えたくなりす。
その7に続く