シフラその5
ジョルジュ・シフラのリストの演奏を取り上げて語るのは、ですから結構骨の折れる事でもあります。 技巧や聴衆を和ませ、喜ばせるパフォンーマンスを主体に語らなくてはならないとしたら、ジョルジュ・シフラを見誤るのは確かです。
フレデリック・ショパンの演奏について触れてみればそこのところを理解することが出来るのではないでしょうか。 ピアノソナタ第2番変ロ短調は一般的な(何を持って一般的と言うかの議論はあると思いますが)ショパンの演奏とはかなり印象を異にする演奏です。 演奏に感じられるのは骨格の確かさです。 およそショパンの楽曲について回るロマンティックさのイメージとは違った演奏が聴けます。 誤解を恐れずに言えばロマンティックな演奏とはしっかりした構成感を持たせずにあいまいな方向に流す演奏であり、実はショパンはそんな演奏を望んではいなかったのです。 ショパンの楽曲に対してもある種の偏見が流布していると言ったら言い過ぎでしょうか(大胆な意見を言えばショパンこそはロマン派でないと言えるのではないでしょうか)。
この様なシフラのショパンの演奏を「早急」に結論付けるならまるでリストの楽曲を弾いている様だと言ってしまいそうになりますがそう感じるのは明らかな間違いです。
リストの曲はとかく超絶技巧、悪く言えば指がいかに早く回るか、あるいはオクターブの妙技か、迫力かにばかりに関心が行ってしまいがちになりますが、根幹には確かな構成力を忍ばせていなくては手に負えない楽曲ばかりなのです。 つまり構成力を骨格と言い換えても良いと思いますが、骨格の確かさがリスト演奏の要なのです。 リストの曲に向けられる芸術性の欠如と言う非難は技巧重視で語られるからで、シフラの演奏に忍ばされている骨格の確かさに注意が向けられない、あるいは思考が及ばなければ、シフラの演奏を見誤りひいてはリストの作品を見誤り、ショパンの第二ソナタを弾くシフラのショパンの表現を誤解してしまうことになるという訳です。 ショパンの楽曲に骨格があると提示するのがシフラの演奏だとも捉えられるのです。
他のショパンの楽曲の演奏についても言えることですが、シフラがもたらすショパンの演奏は聴衆が喜ぶ様を演出して「してやったり」と微笑む場面が多いと感じるところがあります。 それらはほとんどの場合、楽曲の解釈や演奏そのものと言うより、ステージにおける態度(ステージマナーと言えるか)によるところの方が遥かに大きい様に思えるのです。 最初ところで述べたようにおどけて見せたり、どんなもんだいと手をあげたり、ニャリとして見せたりする「舞台役者」の姿があり、それが楽曲の印象までも支配してしまうと思うのです。 これは諸刃の剣です。 舞台上の振る舞いが演奏した音楽の印象を決定的に決めてしまったら、現実に舞台上で演奏されたリストやショパンや他の作曲家の音楽は印象の希薄な技巧だけが目立つ単なるパフォーマンスに堕落してしまうことになりはしないかと心配してしまいます。 ショパンのソナタで言いましたように骨格の確かさに気が付く聴衆の数が減ってしまえばシフラの音楽に対する姿勢までもが疑われてしまうのではないかと危惧する事になります。実際その危惧はある程度は現実のものになっていた、それがシフラに対する評価の片面の見方であり有様であったのだと思います。
ショパン ピアノ作品集:(https://ml.naxos.jp/album/0724356942554):シフラ(Pf)