フリードリッヒ・グルダ その1(1930年5月16日〜2001年1月27日、オーストリア)
ブルーノ・ザイドルホーファーは1905年にウィーンに生まれ1982年にウィーンに没したウィーン音楽院の教授を務めた優れたピアノの指導者でした。 ザイドルホーファーは幾人もの世界的な奏者を育て上げました。 フリードリッヒ・グルダもその一人です。 グルダはもっとも優れた門下生と言われ将来を属望されました。 その期待にグルダは十分以上に応えたのです。
わずか16歳にしてジュネーブ国際音楽コンクールで勝利したのですからその才能を褒め称えても何の違和感も無いでしょう。 グルダもまた天才でした。
そのグルダのピアノ演奏を語るなら何をおいてもベートーヴェンのピアノソナタの演奏を取り上げなくてはならないと言わざるをえません。
しかし、それは後回しにしましょう。 なぜならグルダを語るにはウィーンに生まれたグルダの事を真っ先に考えなくてはならないと思うからです。 グルダはかつての大帝国の首都だったウィーンを「憎んだ」のです。 堅苦しい格式、カビの生えたしきたり、因習と怨念、手垢にまみれた伝統。 グルダはそうした飛翔するには障害になるものを山ほど抱えたウィーンと言う街を嫌ったのです。
(*拙文歌劇場への旅ウィーン国立歌劇場で思い入れを込めてウィーンの情景を書いていますので参照ください。)
フリードリッヒ・グルダは演奏家らしい、芸術家らしい、若者らしい(グルダは生涯若者らしかった音楽家です)「自由」を心に生きたピアニストでした。
ウィーンを憎んだグルダは、その一方でウィーンから離れることが出来なかったのも又確かです。 リヒテルとはまったく違った意味で二律背反を抱えて生きたのです。 大嫌いなウィーンと愛憎半ばするウィーンがグルダの中で同居していたのです。
そしてクラシック音楽と言う固定化された概念に対して、反抗の狼煙を上げたのです。 音楽は自己の内在においては自由でありそれはジャズによってなされるのだと公然と言い放ったのです。 ジャズにこそ開放にいたる音楽があるのだと主張したのです。 これはウィーンのハプスブルク家の歴代の皇帝たちの呪いなのでしょうか。 ザイドルホーファーの一番弟子がよりによって世迷い事を言い放ってクラシック音楽に反旗を翻したりすれば、それがウィーンでのことならなおのこと伝統のもたらす呪いではないのかとついつい考えてしますのです。 取るに足りないピアニストの世迷い事なら若者らしい愚かさだと嘲笑されて終わるだけでしょう。
グルダその2に続く