ミケランジェリ(その2)
ミケランジェリはキャンセル魔として有名なピアニストでした。あらゆる条件が全て整って始めて舞台に立ちたい、いやそうでなければ立てないと強く強迫観念を懐いたピアニストなのです。
私が聞きに行く為にチケットを手配し、不勉強を補う為に演奏予定曲目の楽譜を眺め、準備万端整えたつもりで、いざ鎌倉と出掛けようとしても、何度もキャンセルされたものでした。
私の準備万端など全く取るに足りない事ですが、ミケランジェリの準備万端は、自己にも、他者にも途方もない要求となったのです。
他者に対する準備万端の矛先はピアノの調律師に向けられたのですが、それは又、後程語る事にしまして、ミケランジェリ自身の準備万端に付いて先に触れましょう。
他の偉大なピアニスト達が楽譜を初見で、まるで今そこで生まれた楽曲であるかのように、しかも、恐ろしい事にほとんど完璧に弾く様を(他ならぬモーツァルトを引き合いに出しても良いのですけれど)見たり噂話で聞いたりしますがミケランジェリは少し違うのです。
彼は恐らく完璧にこなさなくてはならないと言う呪縛に捕われているからでもあるのでしょうが、十分に準備の時間が取れない、準備万端整わない初見演奏を、どの様な場面であろうとも拒絶するピアニストなのです。
その3に続く
*注記2*
ピアノコンクールでは初見演奏を種目に取り入れている場合が多いのですが、そうしたコンクールに出場したミケランジェリの初見演奏はあまり出来が良くなかったそうです。
己の築いた、そうでなくてはいけないという思い故に出来あがってしまった完璧な演奏と言う虚像に縛られている様に見えるミケランジェリが、実は自宅においては時には弾き飛ばし、ミスを犯し、それでも無頓着に演奏を楽しんでいる様子が報告されています。
ミケランジェリを捕えた過度な完璧な演奏と言う虚構は何処から舞い降りて来たのでしょうか。舞台の上、聴衆の前ではその様にふるまうのはなぜなのでしょうか?我々聴き手、聴衆の側がそれを要求するからでしょうか?確かに我々の側に罪が無いとは言い切れないと思います。我々はその様に過度な虚構を我々の側でイメージし造り上げ、幾百人のピアニスト達を葬り去って来たかに思いを馳せなければならないと思います。神では無い人間がミスを犯すのは、ミューズの昔から共通の同意事項であるはずです。
しかし、「美」に恐ろしいほどに傾倒したミケランジェリの演奏は例えば聴衆の側に責任があるにしても、なぜ、そこに至るのでしょうか?