ですからミケランジェリのピアノに対する要求は度を越しているのです。舞台から「逃げ出さない」為には、是が非でも納得のいく調整が成されたピアノに向かわなくてはなりません。
調律師を同行させるのはミケランジェリにとっては当然の事なのです。黒光りして舞台中央に佇むコンサートグランドピアノがその立派な外観に相応しく機能するには、信頼のおける調律師が絶対に必要なのです。
他の楽器と違い、あの堂々とした姿のピアノが、実は大変に繊細な楽器だと言う事を私達にはなかなか理解出来ません。演奏会場に運び込まれたピアノが、必ず良いとは限らない事は理解しなくてはなりません。
あの恐いものなど何もない様な女傑(に見える)マルタ・アルゲリッチでさえ、大阪で行ったリサイタルで使用したピアノが悪かったと愚痴を言うのです。他の楽器奏者もそうですが、ピアニストも又、繊細な人々なのです。
信じるか信じないかは個々の判断に任せますが、調律の終わったピアノをミケランジェリが試弾した時、どうしても1つの鍵盤がおかしいと言うのです。いくら調べても不具合の原因が分かりませんでしたが、やっとピアノのアクションに小さなゴミが挟まっていたのが分かったそうです。こうした逸話は怪しげな印象を受けますので、本気にしない方が良いのかもしれません。それでも、ピアノが図体のごとく頑強な楽器では無く繊細な楽器であり、ピアニストも繊細だと言う事を理解出来る話しだと思います。最も考えれば小さなゴミが挟まっているのが分かるなんてとんでもなく繊細で他のピアニストは気が付かない、さすがはミケランジェリと話はそこに行きますが、訓練され、使い慣れたピアノなら大抵のピアニストは何らかのピアノの異変を感じるものです。いえいえ、楽器の演奏をある程度本気で経験した事がある人なら楽器に発生した何らかの異常を感じる事が出来るものです。「何か変だ」と言う漠然としたものでも感じるものです。
それでも特別な事としてミケランジェリのミリ単位の感性が話題になりミケランジェリはますます孤高のピアニストに祭り上げられてしまうのです。「完璧」なピアニストとしてです。
ミケランジェリのドビュシーを(主にグラモフォンに入れた、前奏曲集や映像、子供の領分などを参照)聴く時、だから私は「美」の牢獄を心に浮かべます。自由闊達に奏でられる演奏ではなく、「高精度」の音楽が響き渡るのです。いえ、「高精度」なんてなんだか分かっている様でいて何も分かっていない言い方です。綿密に設計された音楽が聞こえて来ると言った方が、まだ良いと思います。ミケランジェリは細部にわたるまで構想を練り、確定した構想に基づく訓練を重ねてドビュシーを舞台に、あるいは録音にかけるのです。
もう既に出来あがってしまった「完璧」に向かってひたすら弾奏するのです。曲はその時、ミケランジェリの牢獄となってしまうのだと思えてなりません。
だけれども、他ではけして聴く事の出来ない「美」が支配する音楽が確かに聴こえて来るのです。奇跡の様な演奏と私は率直に思うのです。偉大なピアニスト達の全ての名演は、全て奇跡なのかもしれませんが、ミケランジェリの演奏に強くそれを感じるのです。思い込みが激しいと言えるかもしれません。