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ミケランジェリ (その4)
凡庸なピアニストがその様な道に踏み込めばたちまち破滅してしまいますがミケランジェリは何とそこに「完璧(留保付き)」な「美」を立ち上がらせるのです!尋常な事ではありません。
ドビュッシーの演奏における清廉な印象はやはり途方もない「音」の啓示です。敢えて「音」と書きましたのはこれがドビュッシーの「音楽」であるのかを考えるからです。これほど美しく響くドビュッシーの演奏を聴く事が他にあるでしょうか。立ちあがった「美」、それは全てのタッチが、最も適切に成された結果の様にも見えます。適切に?ピアノ演奏のどの様な弾き方が適切だと言えるのでしょう?又、適切さはベートーヴェンを弾く時とシューマンを弾く時、そしてドビュッシーを弾く時で全て同じと言うのでしょうか?全ての曲に通用する「適切な」タッチなどあるのでしょうか?ミケランジェリの演奏を聴いているとあるのではないかと思いたくなります。
こうした考えを巡らせると、ミケランジェリの「美」の演奏を少しでも理解する為に何に注視しどの様に考えれば良いのかを探り当てなくてはならないと思うのです。現実的にミケランジェリの美しい音を聴く度に、これは精神的な領域だけでなされる演奏では無いと気が付きます。精神の発露がこの美しい演奏を成すのだと考えるのは無理があります。
私も含め、往々にしてクラシック音楽の聴衆は、ややもすると精神性や精神の力によって(あるいは神の御力か?)演奏は感動を呼び起こすのだと考えがちです。ミケランジェリに当てはめて言えば、「美」を司る司祭の様な精神力があるのだと言っている様なものです。
それはまるっきり的外れでは無くとも誤った方向に導かれやすい思考だと思います。ピアニストが努力して積み上げ、広義の意味で磨きをかけて来た技術や曲の解析、曲へのアプローチ、ペダリングの加減、タッチの工夫などの物理的な側面を無視してしまいがちになるからです。
「美」の表出、ミケランジェリの演奏の秘密はこの物理的な技術の側面を考え解明しなくてはいけないのです。自宅では楽しげに弾き飛ばし、ミスタッチをいとわないミケランジェリと舞台の上に立つまるで人生に楽しい事など一つも無いのだ、あるのはただ苦悩のみと孤独な姿を見せるミケランジェリのどちらが正しい姿のミケランジェリかを考えなくてはならないのです。
舞台に登場したミケランジェリは舞台そででいったん立ち止まり、客先を見た後、一礼もせずピアノに歩み寄り一礼もせず椅子に腰を下ろすと、いきなり演奏を始めるのです。もちろん笑顔など全く見せません。舞台マナーが悪いなどと当たり前の苦情を言える様な雰囲気では無いのです。全身黒ずくめで、噂には聞いていましたが、細身の体のミケランジェリは、後から思ったのですが、メフィスト・フェレスが現実に存在したらこんな雰囲気だろうかと演奏とはまったく違うよけいな感想をもたらしました。
あるのは、ピアノ演奏の苦悩を一身に背負った司祭、あるいはメフィスト。舞台に立つだけで神秘主義的な思いを懐かせるミケランジェリは、しかし、その「美」を実現する為の誠に現実的な手立てを持って舞台に立っているのです。いやその打つべき手立てに手違いが生じると、大変な混乱を招き舞台に立つ事が出来なくなるのです。
その5に続く