エリザベート・レオンスカヤ その1(1945年11月23日〜、ジョージア)

スヴャトスラフ・リヒテルは無邪気なところがあるけれど、自身に対しても、それから他のピアニストに対してもその音楽芸術、演奏芸術には厳しい目を持ち、向けるピアニストでした。 そのリヒテルが共演することをいとわなかったのですから、エリザベート・レオンスカヤも優れたピアニストであるのは疑い様もないことだと思います。
なぜ、この様に書き出したのかと言いますと、レオンスカヤの演奏には聴衆を力ずくで納得させる、感涙にむせばせる舞台上のワルキューレの様なものを感じないからと言って差し支えないと思うのです。 偏見と言えるかもしれませんが、やはりロシアのピアニストと言うと即座にヴィルトゥオーゾのスタイルを持ったピアニストを想像してしまいがちになります。
レオンスカヤはそうした面を感じさせない、抒情派のピアニズムを持ったピアニストです。 レオンスカヤの演奏するラフマニノフには技巧の冴えではなく「音楽の冴え」が優先されておりそれを聞き取ることが出来るのです。
そして、エリザベート・レオンスカヤの舞台での微笑み、舞台での立ち振る舞いはどの舞台でも変わらない暖かさを感じさせるのです。 立ち振る舞いを音楽そのものの演奏芸術と切り離して考える見方がありますが、舞台の上に立つ演奏家その人に触れるのですから、切り離して考えることの方が多分間違っていると、レオンスカヤに教えられたと思っています。

アルフレート・ブレンデルは自身の感想としてフランツ・シューベルトは夢遊病者の様に作曲したと言う主旨の事を述べています。 レオンスカヤは近年シューベルトのピアノソナタを多く取り上げていますが、ブレンデルの発言を知ってか知らずか分かりませんが、そんなシューベルトの楽曲の性格を演奏に反映させています。
ブレンデルの発言は作曲のスタイルに関して言っているのです。 シューベルトの曲が夢遊病者のようだと言っているわけではありません。 夢遊病者の様にあてどない曲ならローベルト・シューマンの作品の方がよほどそれらしいと思います。
ブレンデルは作曲家としてのシューベルトは思い悩み推敲に推敲を重ねるのではなく、あまり考えることをせずにさらさらと五線紙に曲を書き付けたであろうと感じる、シューベルトの作曲スタイルを言っているのです。
レオンスカヤはシューベルトが筆を進める都度に広がっていく楽想を拾い上げて再現して行くのです。 特別様々な技巧を駆使したり、派手な打ち上げ花火を上げたりしてはおらずどちらかと言えば淡々と弾いているのです。 レオンスカヤのシューベルトの夕べに立ち会った聴衆はそうした淡々とした様に物足りなさやピアノ演奏の秘技の欠落を感じて、どこか納得のいかない印象に支配されて演奏会場から帰路につく事になる場合もあるのです。 もちろんそうではなくそこにシューベルトの魂の響きを見出し喜んで帰路に着く聴衆もいます。

(つづく)

以下、レオンスカヤ(Pf)/リヒテル(Pf)によるピアノ連打

モーツァルト/ピアノ・ソナタ第16番 ハ長調 K. 545 (2台ピアノ編 EG 113):(https://ml.naxos.jp/work/2849311)

モーツァルト/ピアノ・ソナタ第15番 ヘ長調 K. 533 + K. 494 (2台ピアノ編 EG 113):(https://ml.naxos.jp/work/2849313)

モーツァルト/幻想曲 ハ短調 K. 475 - アダージョ(2台ピアノ編 EG 113):(https://ml.naxos.jp/work/2849312)