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ヴィルヘルム・ケンプ (その2)
中期の傑作と呼ばれるピアノソナタ第23番ヘ短調(熱情)作品57はベートーヴェンにとってはただ荒々しいだけのものではなく新たなる挑戦の一助であったろうと想像出来るのです。
それがある種の戸惑いやあてどなさにつながるものでもあるのです。例え高名な弟子カール・ツェルニーが何と言おうと、単にヘ短調ソナタが強力この上ない作品とのみ捉えられるのはどうかと思うのです。この作品、新たな挑戦の作品は、未知なるものとの出会いでありロマン派との邂逅です。ケンプはそこのところをさりげなく弾き出すのです。
それがケンプの演奏が断固たる技巧の、妙技の見せ場を構築する様な演奏からは遠いところにいる様に聴こえる事の一つの理由です。
ロマン派へとつながる、シューマンへとつながるケンプのベートーヴェンのへ短調(熱情)ソナタの演奏は文字通りローベルト・シューマンを予感させ表出させるのです。例えばシューマンには作品14のグランドソナタと銘うたれた作品がありますが、この曲はベートーヴェンのヘ短調(熱情)ソナタと同じ調性のへ短調で書かれています。シューマンの第3番に当たるこのピアノソナタを聴けば(熱情)ソナタからューマンへのつながりを理解出来るように思います。推測にしかすぎませんが、シューマンは恐らくこのソナタの作曲に当たりベート-ヴェンの最高傑作の一つあたる(熱情)ソナタを念頭においていただろうと思います。残念ながらケンプの残した録音にはこのグランドソナタ(もしくは管弦楽の無い協奏曲)は見当たりませんが、同じシューマンのト短調の第2番のソナタ作品22はケンプの録音が残っておりそこにそうしたつながりを聴く事が出来ます。
もっとも、ヘ短調(熱情)ソナタはケンプの最も得意とするものではないと断っておかないと片手落ちになります。私はケンプがピアノソナタ第13番変ホ長調作品27-1を弾くのを聞きながら(この曲は御存じのように幻想曲風ソナタと命名されています)ケンプのベートーヴェンはこうした大曲風では無い楽曲に本来の姿が投影されているのだと思ったのです。アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェ3/4拍子ハ短調の最初の繰り返し指示の5小節前のフォルテで一瞬咆哮する時でさえ、節度と幻想曲の風情をけして見失わない演奏を私は今でも忘れる事が出来ないと正直に述べておきます。
ですから、ケンプがシューマンの演奏に秀でたものをもたらすのはそれ故なのです。ベートーヴェンの幻想を受け継ぐシューマンの幻想がケンプによってつながって行くのです。
ケンプのシューマンはまるで「息使い」のように聴こえます。アーテキュレーションやフレージングが、比べるつもりは全くありませんが、およそホロヴィッツやリヒテルとはまったく違うものになりそれは呼吸している様に自然な感覚をもたらします。他のピアニストが何らかの技巧や解釈や努力によって得ている事柄をケンプは無理する事も無く呈示してしまいます。そんなふうに聴こえるのです。努力しなくても出来ると言っている訳ではありませんが、事があまりにも自然に進むのでそう感じるのです。
ケンプがフランスで人気があったピアニストだと聞いた事があります。およそ印象としては大変ドイツ的に思えるピアニストが実はフランスで人気があることが不思議な気がしますが、ケンプの自然な「息使い」を思うとあまり不思議な事ではないと思えるのです。
又、フランツ・シューベルトがケンプに取って切り離せない作曲家であるのも「息使い」のあり方を考えれば、まるでそうでなければおかしいとでも言いたくなるほど自然な事です。シューベルトがピアノソナタに込めた恐らくは自由でとつとつした感性が明らかにされる様は誤解されるのを気にせず言うなら楽しく思えさえします。
シューマン ピアノソナタ第3番へ短調作品14(http://ml.naxos.jp/work/4569092)ポリーニ(Pf)
シューマン ピアノソナタ第2番ト短調作品22(http://ml.naxos.jp/work/6253431)ケンプ(Pf)
ベートーヴェン ピアノソナタ第13番変ホ長調作品27-1(http://ml.naxos.jp/work/2529855)ケンプ(Pf)
その3に続く