ポリーニ その2

例えば若い時にザルツブルクで弾いた「傷」のある「熱情」ソナタの演奏は、ある種の「冷静さを伴う」情熱の様(さま)がほとばしる演奏だったのです。 ミスタッチがあり、それを超える冷静さを装う情念の発散があり、大方の見込みとは異なる若々しさも垣間見える音楽には情熱が持たれており、その情熱を優れた解析力と優れた完成度の高い均質さを伴うピアノの弾奏でもって表現した演奏が間違いなくそこにあったのです。

しかし、やはり大方の見込み通りの批評が紙面に載り、招聘した音楽祭事務局のメンツをつぶさない配慮でもしたのか、技術の整合性ばかりが話題になり、ポリーニが優れて若者らしい情熱的なテンペラメントのピアニストであることなどほとんど語られることなく、完璧な演奏との御印(みしるし)だけが一人歩きをしたのも、いささか閉口してしまいますが、また事実でもありました。

レコードは若干の真実を伴った噂話しなのだとつくづく思ったのは、あの21世紀になった今でも最高峰の演奏の一つと讃えられるショパンの練習曲集作品10と25のレコードに接したときでした。 そこに記録された演奏は確かに誰も成し得なかった見事な演奏が吹き込まれていたのです。 早いパッセージでさえ打鍵はあいまいさを一切持たず、10本の指は均等にその役割を果たし、練習曲である以上必ず求められる明確な運指は薬指や小指に至るまで履行されているのです。

この様なレコードの存在が、聴衆となる人達の間にポリーニのピアニズムを決定付け、焼き付けてしまったのです。 本人は好きな演奏ではないと証言しています。

舞台でポリーニその人に出会う前に、もはやポリーニがどのようなピアニストであるかを聴衆は知っていた、いや、知っている様な気分にさせられてしまったのです。 恐ろしいことに実際に舞台の上で「熱情」ソナタを聴いているにも関わらず修正不可能な幻想に支配されていたのです。 それだけたった一枚のレコードが強烈な印象を与えたとも言えましょう 。さらに追い打ちをかけるような海外からの噂話しを、とりわけ先に述べましたようにビンシュタイン翁の言葉も手伝ってポリーニ像は築かれたのです。 そして、ポリーニは誤解されてしまい、今でも、もしかしたらその誤解は解けぬままではないかと思う時があります。

なぜなら「最近のポリーニは歳取ってテクニックの衰えが感じられるが・・・云々」という前台詞がポリーニについて語るときに必ず付くのです。 他のピアニストだって歳取ればテクニックについて言及されますから、ポリーニ一人だけのテクニックの衰えをことさら問題にしているのではないと言い訳をするかもしれませんが、しつこくそう言われるのを聞いたり読んだりしていると、随分とポリーニのテクニックについて、特にその一点についてはなぜか評論に携わるような人々までが拘っているのだなと感じ、もしかしたらポリーニは誤解されたまま、もう何十年もの間、そのまま誤解は続き今に至っているのではないかなと思ったりします。

(つづく)

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 「熱情」 Op. 57:(https://ml.naxos.jp/work/4501319):ポリーニ(pf)

ショパン 練習曲集 作品10、25:(https://ml.naxos.jp/album/00028941379429):ポリーニ(pf)