リヒテル その6

演奏にリヒテルの人となりが聴こえて来るのを私達は楽しみ、共感し、感動し、ある時は最良の喜びとなすのです。それはリヒテルそのものの演奏から得られるものであるのは当たり前の事です。私達はとかくピアニスト達を比較して演奏を語ってしまいがちになります。上記でクラウディオ・アラウとの違いに少し言及してしまいましたが、本来はその様な比較はあまり意味が無い事です(この文章では分かりやすく表現する為にそうしましたが、言っている事が矛盾していると言われるかもしれません)。
ドイツ文学者でロココや欧州の歴史などについて多くの著作を残した飯塚信雄はポール・ヴァレリーが言った「18世紀は、真実はいくらかの節度を保っていた。」と言う言葉を解説して真実はたくさんあった。現代の様にたった一つの真実しか認めない事は無く真実が並立していた、と述べています。それぞれの立場から真実にも多様性があったのだと言う訳です。
いささかこじつけかもしれませんが、ピアニストの演奏も一人一人の持つそれぞれの真実が並列していて、それぞれの楽曲の解釈は並列しているのだと言えると思います。多様性があると言う事です。
「テンペスト」に限らずリヒテルの演奏を聴いて心に浮かぶのはこうした並列した演奏があると言う思いです。つまり特にリヒテルの演奏がもう絶体のもので唯一無二のものだと思えない、他のピアニスト達の解釈や演奏もあるのだと想いを馳せることが出来ると言う事です。
なぜ、敢えてそう言うのかですが、リヒテルの演奏の特質の一端が表れているからでもあります。圧倒的であり時にはなぎ倒されそうな感銘を受けながらも、リヒテルの演奏には押しつけがましさがないのです。そう、リヒテル自身の心の中の様に自由を内包しているのです。その自由は他者に対しても同等の自由を懐かせてくれるのです。
私だけの感覚かもしれませんが、リヒテルの音楽にはホロヴィッツに対抗するルビンシュタインとかアシュケナージとポリーニとか、一世を風靡した様なライバル関係が思い浮かびません。エミール・ギレリスがそうだと思われるならば先の題目の「テンペスト」を聴いて貰えれば直ぐにこの二人がライバルであろうはずがない事が分かるはずです。
押しつけがましさが無いと言うはこの様に他のピアニストとの比較もする必要が無い唯一無二のピアニストの位置にリヒテルをおいているのです。

ピアノソナタ第17番二短調作品31-2「テンペスト」:(http://ml.naxos.jp/work/4975254)エミール・ギレリス(Pf)

その7に続く