ブレンデル その3

しかし、そうではないのです。 「恣意的」であるという事は、もっと個々のピアニスト達の「我、想う故に我あり」とでも言う個性やその場で浮かぶ思想の発露であると言えます。 恣意的に感じるという事は、楽譜を詳細に眺めてフォルテの扱いや意味合い、左手の和声の特徴や扱いを吟味するのとはいささか違ったことなのです。 分析して解釈するとは「意図的」な在り様を言うのです。 つまり、分析の結果の表現ではなくブレンデルのベートーヴェンの初期ソナタの演奏はあくまでも個人的な楽想へのその場その場での「あこがれ」の提示であると言えるのです。
考えてみればブレンデルはイエルク・デムスやバドゥラ・スコダそれにグルダと同世代のピアニストなので若い時には当然、表現の在り様を模索したのですから、(伝統的な前の世代のピアニスト達との違いを表現しなくてはならないと言う使命感)そこに恣意的なものが聞こえて来るのはある意味普通の事だと気が付くのです。 若い初期のベートーヴェン自身が模索し意図的と言うよりも恣意的な構成を試みたソナタ(*)を如何様に表現するのかという課題に立ち向かうこれも又、まだ若いピアニストの演奏が恣意的であったとしても何ら不思議ではなく、その演奏に「恣意的」なニュアンスを感じるのは自然な事なのです。

*もちろんソナタ形式のしっかりした構造をベートーヴェンはソナタに与えているのですが、形式あるいは構成力、もしくは構造的であるのと恣意的であることはなんら矛盾していないのです。 なぜなら、楽想の表れはおよそ人間の持つ心の移ろいの領域であり、抽象的な「楽の音」の在り様を、具体的な形式に展開する、あるいは落とし込むのが作曲と言う行為の一面であるからです。
**ブレンデルを語る時に思うのは、ブレンデルその人よりブレンデルについて語る側が、理屈を言い始めると言う矛盾に陥ることです。

先に例によってベートーヴェンの中期の入り口に差し掛かる作品、すなわち第17番ニ短調作品31-2「テンペスト」からブレンデルのソナタ演奏について聴いてみる事にしましょう。
まず第三楽章に触れておきます。 度々それぞれのピアニストの演奏に触れて述べております様に第三楽章は対話の形を取った曲です。 およそ学術的な根拠に乏しい対話的と言う論に対してブレンデルは否定的な演奏をするのかと思いきや、まさに対話を思わせる対比を持って第三楽章を演奏しているのです。 それはザルツブルク音楽祭における演奏会での演奏にはっきりと感じ取れる要素ですが、高音部の右手の旋律線の動きと、特に左手の低声部分の音色をはっきりと色分けして演奏しているのです。 それは聞き様によっては、せわしないソプラノの問いかけに対してしわがれ声で答えているような印象をもたらします。
再度言いますが、テンペストの第三楽章が主に対話の形を持っていると言っても、絶対的、学術的な根拠は希薄なのです。
(つづく)

ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調 「テンペスト」 Op. 31, No. 2:(https://ml.naxos.jp/work/4464101):ブレンデル(Pf)