ブレンデル その2

そして、舞台に登場したブレンデル自身もまた、少しはにかみながらも豊かな笑顔を浮かべ喜ばしさの中に進み出る様に見えたのです。 そこには聴衆という一歩間違えればたちまち牙をむく猛獣の群れの中に進み出るピアニスト達の行う普通のピアノリサイタルとは全く違った雰囲気に満ちたピアノリサイタルの始まりがあったのです。
なぜ? ここがブレンデルにとっての砦の内側の街だから? いや、この街の聴衆がそんな甘いものではないのは知っているではないか、砦の内側だろうが外側だろうが、平然と拒絶し打ち倒そうとさえするのがこのかつての大帝国の首都であった街の聴衆ではないかと思っていたのです。 そもそも聴衆とはその様なものであり、その様なものを聴衆と言うのだとの偏見を懐いていたのです。
しかし、いつの間にか堅牢に築いてしまったブレンデルの印象と演奏とそれにまつわる聴衆の在り方をさえ心の中で音を立てて崩れ去っていったその瞬間に、この街の聴衆が親しげにブレンデルを迎えるのは、ブレンデルがその様なピアニストであるからだと気が付いたのです。

この様にブレンデルを改めて「発見」出来なかったならおそらくブレンデルについての一文はもっと違ったものになっていたか、ブレンデルについて触れることをせずに過ごしていたのではないかと思います。 誠に勝手な個人的なお話で恐縮ですがそのことに気が付いたのは誠に幸運な事ですし、20世紀がまだ終わらぬ内に気が付けたのも何かの縁であったのかとも思うのです(でなければブレンデルを20世紀のピアニストだと言うのがはばかられてしまうところでした)。
アルフレート・ブレンデルの演奏について考える時に何にもましてまずはベートーヴェンのピアのソナタについて触れるのが順当な事だと思います。
ところで、上で述べました様にブレンデルを再「発見」出来ずにいたならばブレンデルのベートーヴェンのピアノソナタはアナリーゼの妙を尽くした演奏解釈だと未熟者の筆者は筆を走らせて失笑を買っていたに違いありません。
例えばソナタではありませんが、所謂「エロイカ」変奏曲は実にしっかりした着実な足取りで変奏の一曲一曲をまとめ、全体のバランスにもしっかりとした配慮が行き届いていると言う、お手本には丁度良い様な堅実さが支配的な演奏です。 面白みに欠けると感じても仕方がないのです。 こうしたベートーヴェンの楽曲の演奏を聴いていると、およそソナタもそうした方向にある演奏だと大方は判断が付くと言う塩梅です。 一連のソナタ群の演奏においては、見事な分析による研究成果が如実に反映されていると、つい述べたくなるのです。
ところがベートーヴェンの初期のピアノソナタの演奏を聴くとそこに「恣意的な」印象を懐くのです。 分析による演奏なら「恣意的な」印象はむしろ当然の事、ピアニストの意思が反映されるのですから「恣意」を感じなければ、むしろおかしいのではないかとお思いになりますでしょうか?
(つづく)

ベートーヴェン「エロイカ変奏曲」15の変奏曲とフーガ 変ホ長調 Op. 35:(https://ml.naxos.jp/work/5327955):ブレンデル(Pf)

アルフレート・ブレンデル(Pf)