シフラ その6

 

そうは言いましても、シフラが珍しく手掛けたベートーヴェンのピアノソナタ第21番ハ長調作品53「ワルトシュタイン」などは多少踏み止まって吟味が必要な演奏かと思います。

ややもすると技巧の見せ場の様に扱われるハ長調の和音の連打で始まるワルトシュタインソナタを確かに技巧の見せ場にしていると一聴すると思わせる演奏をシフラは繰り広げます。 技巧は冴え骨格を崩すことなく弾き進められます。 確かな骨格を保持して構築していくのですが、その時に演奏に欠けているのは潤いです(ここでの表現は主観的な感覚です)。 ワルトシュタインソナタに「潤い」とはどういう事かと思われるでしょうか。

ベートーヴェンのソナタは何度か言いましたが、形式、構造の表現が一つの要の楽曲であることは間違いないのです。 だけれどもパウル・バドゥーラ・スコダが「ワルトシュタイン」ソナタに必要なものは「密やかな」(それこそはまさにヴィルヘルム・ケンプのごとくに)立ち振る舞いだと、ヴィルトゥオーゾ的な誇張と加速度的な走駆の通過儀礼は差し控えるべきだと、機械的な運動能力の発揮による表現に対してのアンチテーゼを表明し、「潤い」を求めているのだと考えた時に、シフラの演奏はまさしく潤いに欠けているのだという事です。

第20番に至るまでのソナタと違ってベートーヴェンは技巧的なヴィルトゥオーソの走駆を課してワルトシュタインソナタを構成しています。 バドゥーラ・スコダはそれだからこそ、「密やか」さが必要だとしているのです。

それに対してシフラはおそらく無頓着にワルトシュタインソナタの骨格を組み上げることに着手しているのです。 シフラはそれがこのソナタの正しい姿だと了解しているのです。 超絶技巧のさわやかさに、もたらされる興奮に身をゆだねるならシフラの演奏はなかなかの演奏だと言えます。 構成的に音楽的にもけして正しくない姿だと非難することは出来ません。 きわどいところでソナタの全体像を見渡してその見通しに折り合いをつけているからです。 技巧の表出に全精力を傾けた挙句に、ワルトシュタインソナタを遣り損なっているという訳ではないという事です。 少し冗談めかして言えば、この程度の難関で全精力を傾ける必要はシフラにないのです。(ちなみに、ポリーニのライブ演奏と比べると第一楽章のシフラの演奏は2分ほど早いのですが、それはシフラがベートーヴェンの要求するリピートを行っていないからです。演奏速度が並外れているという訳ではありません。)

シフラへの評価はこうした時にはかなり難しいのです。 演奏会場における興奮のありようがその場の雰囲気を造形しますが、客観的に再生音源に耳を通した時との落差はあると言ってよいでしょう。 ここでわざわざシフラのワルトシュタインソナタの演奏を取り上げるのはあまり弾く機会を持たないベートーヴェンのソナタの演奏であり、この様なベートーヴェンの演奏はシフラのピアニズムの有様が理解できるからです。 すなわち、実演の人であると言う事実を、です。

*お気付きの様に筆者が、ベートーヴェンのピアノソナタの演奏を取り上げるのは、ベートーヴェンのソナタがピアニストを考える時の試金石なると思うからです。