グルダ その6

このようにしてグルダはウィーン的なものと袂を分かとうとするのです。グルダの素晴らしいベートーヴェンの演奏を聴いて思い浮かぶのはウィーン的なもの感じない演奏だと言う事です。 ピアノの音色も、例えウィーンのピアノ、ベーゼンドルファーを使用してもウィーン的な音色に寄り添う事が無いのです。
グルダは全てをご破算にして、再構築するのです。 生き生きと即興演奏の感性を持って跳躍するのです。 いえ、ご破算の後に再構築しただけだと言えます。 グルダは特別に何かを変えようと、変化の為の変化を求めてなどいません。 ただ、再構築しただけなのです。 手垢の付いたと思われるベートーヴェンのソナタの数々をさらに新たに仕立てて見せるのです。 何と言う才能でしょう。グルダの素晴らしい、いいえ、恐るべき才能を感じます。
少しベートーヴェンなどのドイツ・オーストリアの音楽から離れて見ましょう。 グルダがドビュッシーを演奏するときの、共感と共鳴はどこから生まれてくるのでしょうか。 タッチとペダリングの響きがもたらす静謐感と相対する躍動感との矛盾がなぜあのように調和して一つの楽曲に収斂されていくのでしょうか。 およそ、ドビュッシーなどウィーン生まれのグルダには相応しからざる作曲家ではないかと思えるのですが、見事に透明感を表現できるのを聴くとグルダにとってのドビュッシーはベートーヴェンと同じくらいに、自身を解き放ち投影できる作曲家なのだと気が付くのです。 調和するのはそれ故です。
ここで注意を頂きたいのは透明な音とは言っていないことです。 なにやら言葉遊びの様になって恐縮ですが、透明感を表現できるのと透明な音がすると言うのは違ったことなのです。 グルダにとってのドビュッシーは即興性を、念のためですがドビュッシーの演奏で即興をしている訳ではありません、発揮するのに近しい存在なのだと言えます。 即興性の一番の肝は即応して放出する自由裁量への憧れで、透明感はおのずとそこに在るのではなく、表現するものになるのです。
そうです、即興とは一つの憧れです。 グルダはこれも矛盾しますが、「清楚」にドビュッシーの和音を重ねて憧れへと「躍動」し、実際の音ではなく、楽曲に乗せて気持ちをクレッシェンドさせて行くのです。 大雑把ですがグルダのドビュッシーの演奏はそう言えます。 矛盾した言葉が続きましたが、グルダ自身が、先に書きました様に、二律背反なピアニストだからこうした文章になるのは致し方ないのですと言い訳をしておきます。

グルダ その7に続く

フリードリッヒ・グルダ(Pf)