グルダ その4

さて、闊達な重みを持った?第一楽章から第二楽章に進みましょう。 最後のソナタと言う思い入れを抜きにしても、このソナタがまさしく天上に近い音楽であるのはこの至上の第二楽章によっているところが大きいと思います。 全てを連れさて行くような、あの、アリエッタの変奏のトリル!
ルドルフ・ゼルキンの演奏に触れましたが、ここでも少し取り上げてみましょう。 ゼルキンの演奏は明るい色調で始まります。 ゼルキンの面目躍如の若々しさが響きます。 ソナタ全作品を通してグルダの演奏には生き生きとした躍動感が感じられるのですが、ゼルキンも同じように捕らえることが出来ます。 だけれどもこの二人の違いは熱狂の様(さま)にあります。 ゼルキンは歳食っても心から湧き出る自然な形の熱狂を忘れずに差し出すのです。 グルダは自由闊達に演奏しながら熱狂を持ってソナタを開放に向かって解き放つのです。
熱狂などと言う言葉は最後のソナタの形而上学的な雰囲気にそぐわないとお思いだとしたら勿体無いことです。 ベートーヴェンはけして最後の祈りのために、あるいはこれでおしまいなのだと考えて32番を作曲した訳ではないのですから。
32番第二楽章の最後の3章節を聴いてください。 手前の次第にクレッシェンドしてゆくCBAGFEDCBの下降スケールが32部音符で3回(オクターブづつ下がります)繰り返され175小節目のフォルテで打ち込まれるCの8部音符で開放されますが、グルダはここからの3章節に指示されたスフルツァンドを明確に解き放たれるように表現しています。 ゼルキンは熱意の後の終止の様に何げなく通過して行きます。 ゼルキンは差し出し、グルダは開放するソナタ全体の演奏を通しての理念が最後に集約されて表現されているのです。 二人とも見事な演奏です。 誰とは言いませんが、最後に至っても一貫した理念が窺えずに最後のピアニッシモが消え入る様に終わってしまう演奏を聴いてがっかりした経験を持つ人は多いと思います。 32番のソナタはこの一貫したものを表現するのがもっとも難しいソナタなのです。 いかにテクニックを鍛え困難を克服しても、長い繰り返し現れるトリルの清廉な音を乗り越えて一貫した理念に到達するのは至難の業なのです。
そして、ああトリル!永遠の命題です。 グルダは答えを出して見せます。 過度の鮮明さではなく、グルダのトリルには希望が感じられるのです。 これからもなお、どこかおしまいにではなく始まりに向かって連れて行ってくれるような。 文学的な表現で申し訳ありませんがトリルの演奏は、もうテクニックだのふさわしいテンポなどで語れる領域にはないのです。

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op. 111:http://ml.naxos.jp/work/4457590:グルダ(Pf)

グルダその5に続く

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