エミール・ギレリス その2

「鋼鉄のピアニズム」と形容されたギレリスが弾けば圧倒的でなくては誰も許してくれなくなるというわけです。 また、鋼鉄と言うイメージは堅い、断固とした、強い、あいまいさがないなど、多様な表眼力を持ってバッハからプロコフィエフまでをも弾きこなさなくてはならないピアニストにとっては大変邪魔になるイメージです。 プロコフィエフ「だけ」弾くのなら形容詞が「鋼鉄の」でも何の不都合もないでしょうが、テクニックの限りを尽くして(この場合はアクロバティックな超絶技巧も含めてですが)演奏しなくては聴衆が納得してくれない、超絶技巧の曲をプログラムに入れなければならないなどとなれば負担ばかりが増えるのです。 いえ、別にギレリスは超絶技巧の曲を弾くこと自体に負担を感じる事はないと思いますが、芸術家として演奏を聴いて貰うのが本来の姿であり、ギレリスもそれを旨としているはずですから、多様な楽曲でプログラムを組み、自身の芸術的信条を吐露したいと願うはずです。 要はイメージだけで聴きに来てほしくなどないと言う事に他なりません。
先にあげましたシューマンの交響的練習曲の各楽曲の演奏は楽曲の表題にふさわしいテンペラメントに彩られていて、それぞれが独立した表現を達成していますがその中に一本筋の通ったものを持っているのです。 そこでその一本の筋が、強固で頑固な、つまり「鋼鉄の」イメージに連結して聴き手に「鋼鉄の」と思い起こさせるのだと思います。 その一本の筋とはタッチの明確さに由来するのです。 明確であるゆえにギレリスは色彩豊かに音色を引き出しているとは必ずしも言えません。 ピアニッシモにおいても弱音の波紋の広がりではなく、弱音は一直線に差し出されると感じます(弱音の扱いはそのピアニストの資質を見極める大切な要素です。 囁くようにとか味わい深くとかでなく、一直線に届くのに弱音は弱音、ピアニッシモの表現が明確であることはいかに指先が訓練されているかを物語るからです)。
この弱音の扱い、もしくは表現に関しては聴き手の好みが非常に反映されます。 一人ギレリスに限ってことではなくピアニスト全般に言えることですがフォルテッシモでは時には乱暴この上ない弾奏でも、迫力のある、気迫に満ちた演奏に聞こえることがあり、聴き手の好みよりも音量がものを言う場合があります。 ところがピアニッシモでは事情が違ってきます。聴き手の好みが左右を分けます。

シューマン:交響的練習曲 作品13(http://ml.naxos.jp/work/5634082)エミール・ギレリス(Pf)

つづく