スコダ その4

だから、最後のD.960変ロ長調のソナタは大変な難曲になってしまうのだ。 さりげなく弾けなければそれはシューベルトとは言えないのだといわれ、さりげない様を装って弾けば、いくばくかの心さえもこの演奏には無いと断罪される。
先の言葉によるなら「歌う」事が出来なければそもそもシューベルトなどに手を染めずにリストでも弾いていれば良いのだと(とんでない誤解だがリストの演奏も又、歌えなければその演奏の価値を失っていることになるのだが)したり顔で非難されるのが関の山である。

スコダは大胆さとは無縁の、巨匠性とは無縁の弾奏を持ってシューベルトに近づく。 まるで手の内に全てはあり、最後のソナタの若々しさにさえ手を伸ばしているのだと言っているようだ。
若々しさ? 例えシューベルト晩年の曲で、そこに諦観の念が込められていると言えても、変ロ長調ソナタは31歳のシューベルトが作曲した曲だ。 あたり前だが、十二分にシューベルトは若かったのだ。 諦観の念が込められていようがいまいが、ここに若さが無かったら不思議だ。 それは元気溌剌とした若さではもちろんないが、若さゆえの移ろいと彷徨が込められているのだ。
スコダは舞台の上でさりげなくそれを披露して見せるのだ。 シューベルトの打ち棄てられた心の、行き場所を探すような揺らめきを・・・穏やかに、ゆったりと、まるで魂の追憶を探すような。 良く言われるそのままにシューベルトは己の命が尽きる事を心得ていたのではないかと思えるようにスコダの演奏は流れていく。 厳しく弾かれるところでは、まぎれもなく魂の慟哭が響き渡るのだ。 それは少しも深刻で激しく響くわけではない。 安らぎさえもあると言える。
だからと言ってスコダのシューベルトが、史上まれにみる名演奏であるとは言わない。 シューベルトの時代のピアノフォルテを使うか使わないかと言う事ではなく、スコダの演奏にはシューベルトの色合いが込められている。 むしろ誰もが感動して感涙にむせぶ様な演奏ではないがゆえに、スコダはシューベルトに近づいているのだ。 同僚のグルダやデムスとはいささか違った趣を聴かせながら近づいていると言う訳だ。

グルダがいなくなり、デムスも彼岸の彼方に去ってしまった今、更に言うならブレンデルが引退してしまった今、こうしたシューベルトを聞かせてくれるピアニストはスコダが最後かもしれない。 新しい世代のピアニスト達はもっと逆説的にシューベルトの生きた時代に向かってシューベルトを封じ込めようとしている。 先に述べたように楽曲の表現でも自由を愛し楽譜に封じ込めたシューベルトの思いがどこかにいってしまった様に思える。 新しい世代のピアニストは己の内にある自由には忠実だけれども、シューベルトの自由とはき違えているような気もする。 これは批判ではない。ただそうして表現のありようが時代とともに変わっていくだけの話しなのだ。寂しい事ではある。
(つづく)

シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調 D. 960(異なる3台のピアノによる演奏):(https://ml.naxos.jp/album/GEN12251)
:バドゥラ=スコダ