• ミケランジェリ(その3)

ピアニストが舞台に立つ時に一番恐れるのは演奏における間違いだと想像します。弾くべき鍵盤を外してしまう、音符を見失しない何処を弾いていたのか分からなくなる、同じ個所をどうどう巡りして収拾がつかなくなる、止まってしまうなど、それはピアノを習い始めたばかりの子供から、偉大なピアニスト達に至るまで共通して起こる事なのです。
私達がピアニスト達の演奏を聴く時に一番抜け落ちているのは、第一級のプロのピアニストは発表会でブルグミューラーを弾く子供達の様に弾くべき鍵盤を外したり、止まってしまったりするなどあり得ないと勝手に思っている事です。そうした誤った完全性を何の批判も無く無自覚に信じる聴衆もいれば、逆に演奏中にも楽譜を見ながら、演奏者がミスタッチするたびに顔をしかめる聴衆がいるのも事実です。
どちらも、ピアニストを理解していない様な気がします。その様に理解してくれない聴衆を相手に一人舞台に立ち(協奏曲なら指揮者とオーケストラが味方になって支えてくれますから孤軍奮闘するピアノリサイタルに比べれば少しはましかもしれませんが)ミスを犯さない事が大前提となる演奏へ踏み出すのは勇気のいる事です。
ミケランジェリはミスしない事を大前提とした演奏に注力するのです。どうして彼が第一義的にミスを徹底的に排除する方向に向かったのか、正直これだと言えるものは思い浮かばないのですが、恐らくミケランジェリの性格がその様な方向へ行かざるを得ないものを持っていたのだと思われます。
ミケランジェリは徹底的にミスを取り除く為に孤軍奮闘します。タッチは均一化を目指しそろえられ(薬指と人差し指がまったく同じに機能する!信じられますか?)、フォルテとフォルテッシモ、ピアノとピアニッシモを何時でも過ちの無い強弱で遂行し、音色の高精度化が図られ、雑音を排除し(これについては別途記載します)、テンポも十全に推し量り入念に設定され(テンポルバートさえも設定の範囲です)、全体を通した設計図が描かれ、設計図の通りに演奏するのです。
己の道を、ピアノ演奏をミケランジェリはこの様にして音楽表現の牢獄に閉じ込めてしまうのです。行き付く先は完全な「美」です。何に一つ乱れる事のない「美」です。いえ、間違える事のない完璧を己の演奏に求めた場合、演奏は自ずとそうならざるを得ません。ミスを犯さない演奏に捕われてしまえば、ミスの無い完璧な演奏が全てとなり、ミスの無い演奏を隠れ蓑にして、面倒ないざこざに巻き込まれる事も無いという事になるのかもしれません。ミスの無い演奏をする事自体全てのピアニスト達を眺めても実に驚くべき事ですが(そうは言ってもミケランジェリはミスを犯していない訳ではありません)、簡単な事ではありません。
どなたが言ったか忘れてしまい面目ないのですが、「墨絵の様な、白黒の美」と論評した評論家の方がいらっしゃいましたが、私もそれは言い得て妙だと思います。その様にある意味では計算されつくした、演奏を理想化した、あるいは高度に定型化した、理想を具現化した様な演奏は、色彩感の豊かさや極彩色の乱舞や精神の高揚や野放図で奔放なリズムや情念の爆発とは違った演奏になるしかありません。だから野放図とか奔放、そう言った演奏の最右翼にいるあのマルタ・アルゲリッチがミケランジェリに弟子入りしたのですから不思議な気がしますが、アルゲリッチはミケランジェリの舞台上の姿とは違う部分を知っていたのかもしれません。

その4に続く

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(Pf)